オフィスを出る頃には強い雨が降っていた。
透明なビニール傘をさして駅まで歩く。
モノレールに乗る頃には雨も上がり、いつもより涼しげな風が吹いた。
雲が晴れて、8月の十五夜はやけに月が明るい。
早く秋になればいい。
20000814
今年も海には行かないだろう。
物置の中に積まれたレギュレーターやインシュレーターも、きっとカビが
発生しているだろうしオーバーホールしなくては水中での使用に耐えないだろう。
ハウジングもグリスアップせずにほったらかしのままだ。
僕は、いまだに日の目を見ることがない写真家の撮った鯨の母子を思い浮かべた。
その写真家はいつも鯨を追って島にやって来ていた。
まっくろに日焼けし、歯が白くよく笑う頑丈な男だった。
春にその写真家と、人口僅か500人の母島へ渡った。
初めての母島は、あまりにも手つかずで独特の閉塞感のある島だった。
写真家は、島に着くとすぐにチャーターした漁船に乗り換え沖に出た。
僕は知り合いの母島小学校の教員から車を借りて、島をまわった。
正確に言うなら、南北を結ぶ一本の道しかないので、そこを往復した。
次に乳房山へ登った。
とっぷりとしたシダ類の緑の深さが歩き慣れた父島の比ではなかった。
日が暮れかけたので、すこし足早に山を下ることにした。
夕焼けが迫り、山の中腹からはオレンジ色に発熱する鏡のような凪の海面が見えた。
鯨がテールスラップをしている。
激しい水の柱が立ち上がっている。
そのそばに、小さな小舟の影が見えた。
それはとても小さな影だったけれど鯨に挑むようにしてシャッターを切り続ける
写真家の姿だとわかった。
写真家は、母島小学校の体育館で小さな写真展を開いていた。
その日の夜には、レクチャーを開き島の誰もがわかる優しい言葉を選んで
鯨の生態の話を、興味をそそるように話した。
すでに、水中写真家として名が売れていたが気さくで謙遜な男だった。
後に男は毎年春に母島を訪ねては鯨を追っているときいた。
最後のニュースを聞いたのは1年前の春だ。
写真家は船で待たせているマネージャーに「20年に一度のチャンスだよ」と言ったという。
鯨の群が、自ら船に近づいてきて逃げることはなかったという。
写真家は、もっぱらスキンダイブで撮影をしていたが、二頭の母子鯨が近づいてきたときに
珍しくボンベをしょって海に潜ったという。
そしていつまでたっても彼も、彼の愛したニコノスも
二度と浮上してこなかった。
僕は時々想像するんだ。
あんなに海の生命のすばらしさを教えてくれた彼が
「20年に一度だよ」といってシャッターをきった青い写真のことを。
いつか、誰かがそのニコノスを海底から拾いあげ現像するときが来るんじゃないかって。
その写真が、残されたものの心に届き僕らを解き放す時が来ることを今も信じているんだ。
1999年に母島沖で消息を絶った写真家望月昭伸氏に捧ぐ
20000813
約束のAM10:00に少し遅れて新宿南口のタワー・レコードの前にてSAGEと会った。
髪を後ろに束ねていた。瞳の光彩から、知恵に満ちている青年だと思った。
初めて会ったような気がしなかった。
彼の導きにしたがい、数時間後僕は宇都宮の大きな民家の軒先に佇んでいた。
なつかしい。
今はもう訪ねることができないかつて幼い頃をすごしたある家のことを思いだした。
やがて、次々と人が現れた。
どんな異種のプライマルとさえ結びついてあらたな分子構造に発展してしまう
開放系の人々
かつて、同じ時を過ごして夢を共有し、いまは離ればなれになってしまった人達のことを
思い返さずにいられなかった。
僕は、少しばかり感傷的な気持ちになった。
たぶん、蜩の鳴き声のせいだったり誰かが庭にうった水が蒸発するときの
匂いのせいだったと思う。
自分と外界を結ぶつながりが新たな発展をはじめるのを感じた。
これからのことを、すこしだけ明確に語りたくなった。
彼はメディアだったのだ。
20000812
なんだか悪い夢をみて目覚めた。
ひとつひとつのエピソードが小さな哀しみを帯びていた。
それは飼っていたセキセ・インコを逃がしてしまったり
(昔飼っていて、現実にはとうの昔に死んでいる)
車がパンクしたりとか、会議で上司と言い争ったりなど場面がころころと変わった。
それぞれの場面には意味的な繋がりなどまるで無いように思えたが
そこでの出来事の断片をつなぎ合わせていくと大きくて哀しいジグソーパズルのようになる。
そんなオムニバスのような夢の集合体だった。
目覚めてから、ひとつひとつの夢を検証し全て夢であって現時ではないことに安堵した。
20000811
辿り着いた週末
朝いつものように出勤すると、どうやらトラブルが発生しているらしかった。
人々のせわしない動きや表情でわかる。
だれかが ATMの電源を誤って落してしまいセンターのサーバーがダウンしてしまったようだ。
やれやれ。
普段は専用線で外の世界と僕をつなげていてくれた机上のPCもただのガラ箱に見える。
急に、自分自身も外界との交信を遮断され密閉されているような気分だ。
すっかり透明なラインに対して依存症、諦めてしまえば、むしろ普段よりも効率よく
ネットに頼らずに文献や資料が整理されたりした。
プレゼンもなんとか乗りきる。
明日から一泊だけの予定で東京の喧騒から逃げ出す予定
PCは持っていかない。
もう一つの透明なラインを探しにいく旅だからね。
20000810
通勤電車で、安部公房の「砂の女」を読んだ。
そのリアリズムにすっかり引き込まれてしまい自分もまた、膝まで砂に埋もれて
歩いているような憂鬱な錯覚にとらわれてしまう駅からの帰り道。
家に帰ると、コビが尻尾を振って「おかえり」の仕草をしている姿を見て笑ってしまい
やっと現実に帰ったのでした。
20000809
久しぶりにカセットテープを漁ってスティーヴ・ライヒのテヒリーム (詩篇)を聴いた。
まるで、繰り返す日常を優しく肯定してくれるようなミニマルに美しい変化を遂げていく旋律
詩人の朗読のようなパーカッション、音の詩編
僕の日常は、物語になるような旋律からはちょっと遠い。
だけど、毎日少しずつ変化をしながら岩のかたちを波が削るようにして作り変えようとしている。
毎日、そして明日もスーツを着て同じ路線を往復する。
だけど、今日の朝の匂いは昨日と少し違うことに慰められたり。
毎日少しだけ昨日よりわかった気になったり謎がふえたり。
「あ、わかった。まとまってきた」と独り言を言ったり頭を抱えて絶望したり。
ランチに鰻重を奮発して「ここの蒲焼きうまいわ」なんて店の主人とおしゃべりしたり。
NYのライアンから届いた、誤字だらけの日本語メールの伝えようとしている内容が切なくて、
少し涙ぐんだり。
夕飯をロッテリアで済ませてしまってポテトのまずさに落ち込んだり。
オーバーカロリーを気にして一駅歩いたり。
そんなところだけが、昨日とちょっと違う。
相変わらずさ。
20000808
今朝あなたから届いたメールには海のことが書かれていました。
そのことで、僕はぼんやりと思い返していました。
僕が海について知っている幾つかのことを。
なにせ海のある村を離れて、もう5年たつのです。
まず、いまだ知らないこと。
海を表す色の呼び名と、海を描くのに必要な絵の具。
少しだけ知っていること。
靴を脱いで飛び込むべきところだということ。
そこは聖なる幕屋だから。
そして真昼に海に包まれたなら、どこまでも自分を誘うような放射状の光りを
決して追ってはいけないということ。
その光りの中心の黒点は、深淵に映し出された太陽を背にした自分自身の影だから。
深度が増すごとに、まるで哀しみや怒りが浄化されていくようだけれど、消え去ったのだと
思ってはいけないということ。
それはただ精製されてサラサラの粒子に変わったにすぎないということ。
逝ってしまった人々のことを思って涙が溢れるのは深度30メートルで吸い込む窒素に
酔うせいにすぎないということ。
バベルの塔のことをいつも考えてしまうのは許されないエリアへの入場を懇願してしまう
せいと、潜っているのか上昇しているのかが判らなくなってしまうせいだということ。
地上に戻る理由は、自分で見つけなければいけないということ。
地上に上がった僕は、もう一度そこへ行くべきかは今はわからないということ。
そこにいまだ僕の場所があるならば、幸せだということ。
今夜は眠る前にシチリアの海を思いながら、目を閉じて祈ることにするよ。
おやすみなさい。
20000807
眠れないまま蒼い時間をむかえた。
テレビをつける。
珈琲をいれてクラコットにエメンタル・チーズをのせて囓る。
のそのそと動き、髭を剃ったあともボーっとしていた。
いつもより40分近くも遅いモノレールに乗った。
まるでいつもと景色が違う。
始業時間とほぼ同時にオフィスにつく。
上司に適当な言い訳をした。
「申し訳ありません。すこし気分が悪くて途中下車して少し休んでいました。」
大丈夫かい、顔色が悪いよ。
いえ、もう大丈夫なんです。
大事なときなんだ、早めに病院へ行くといいよ。
ええ、様子を見てからにしますけど、大丈夫です。
ランチタイムに外に出ると、晴天の夏日の下でざあざあと雨に降られた。
雨雲なんて何処にもないのに。
右翼の宣伝カーが猛スピードで交差点を駆け抜けていった。
オフィスに戻ると、窓ガラスにバラバラと音がした。
雹だった。
雹?
眼下では、駆け足で待避する人々が見えた。
日射しが強く、まるで現実感がない。
ヘリコプターが向かいに見えるビルの上を旋回している。
バラバラという爆音。
誰かが銃で撃たれたらしいと知らせ。
ビルの右翼事務所に立てこもっているらしい。
あのビルで?本当かい?
帰りの電車で、向かいに座っている男が[ MARIJUANA PICKERS ]というロゴの入った
UNITED GRASS WORKERSのTシャツを着ていた。
同じTシャツを僕も持ってる。だけど、パジャマの代わりだよ。
男は「社会構造と時空概念」というハードカヴァーの本を読んで大笑いしていた。
それは面白いのか?
家に帰り、夕食を終えると自然に眠気がやって来た。
目を閉じれば、今すぐにでも眠りに落ちそうだ。
ここはどこか。
20000805
洗濯機をまわし掃除機をかけのんびりと過ごす土曜日。
夕方から雷が鳴っている。
夕食はKの家でソーメンを頂く。
食後にかき氷など食べながら仕事の話をする。
夜には強い雨が降った。