宣教、移動するということについて
「その日私は、そしてこれから私たちは - 十字架の下の家族 -」
この原稿を、2016年3月11日に、滞在先のフランス・アルザス地方のストラスブールにて書いています。
あの、東日本大震災から5年という節目の日です。皆様もそうであるように、2011年3月11日の事を、私はいつまでも覚えているでしょう。
その日私は、スペイン・バルセロナでの巡回奉仕のために、礼拝を捧げるために早朝、ミラノの牧師館から空港へ向かっていました。
ところが空港までの道が予想外の事故でブロックされ、絶望的な渋滞にはまったのです。
ピクリとも進まなくなった車内で僕は何気なくスマートフォンで日本のニュースを見ました。
その時に、はじめて日本で大きな震災がおきたことを知りました。
その時点では、日本でも震災から一時間も経過しておらず、SNSなどをみると、誰もが混乱し、正確な情報を求めているようでした。
私の方も、ミラノからバルセロナまでの飛行機のフライトの時間は過ぎていたので、私は渋滞の道を抜け出して千キロ先のバルセロナに車で向かう事を決めました。
12時間を超える車の旅です。イタリア、そして南フランスのコートダジュールと呼ばれる地中海沿岸をひた走りながらスマートフォン経由で、NHKニュースを必死に聴いていました。
わたしは、ハンドルを握りながら、阪神大震災の時を想い出していました。あの頃、私は小笠原諸島の父島に暮らしていて、高校の教員をしていました。25歳の時でした。
震災のニュースを唯一のテレビチャンネルである衛星経由のNHKで受け取りました。
海の向こう側にある、母国の危機を知らされる、胸が締め付けられるようなあの時の思いが、蘇ってきたのです。
真夜中に無事にバルセロナに到着し、ホテルではパソコン経由で様々な現地の映像をみました。母の出身地でもあり、僕にとっても幼いころからの美しい記憶がある、宮城県の沿岸部が、津波にのまれる空撮映像を見ながら、涙が溢れました。
翌日、バルセロナの教会で聖書を開き、ともに母国を離れ、母国のことを想いながら日本語礼拝を捧げる人がいることに深い神の憐れみと恵みを味わいました。
その日の午後に、再びミラノに向けて、翌日のミラノ賛美教会での礼拝のために1000キロの道のりを走りました。スペインでもフランスでも、高速道路の休憩所では、日本の震災を伝えていて、日本のために祈ってくださる欧州の人々の姿もありました。
そして、ミラノに戻ると、韓国人の教会の家族たちが、共に涙を流して祈り、そしてミラノで洗礼を受け、日本に帰った村上明日香さんの故郷、石巻が甚大な被害をうけたことを知ると、大きな捧げものを集めてくださったことを覚えています。
あれから5年、今も私は、民族の壁を超えて結び合わされたミラノ賛美教会から、欧州各地に派遣され、福音を伝え、次世代のリーダーを育てるために走り回っています。
それは、十字架の上からイエス・キリストがご自身が血を流し、その血をもって、私たちを天の父なる神の子として結び合わせてくださり、民族を超えた、血縁さえも超えた十字架の下の家族を作ってくださったからです。
先月イスラエルを旅し、欧州からの参加者たち14名も加えて、ともにイエスの足跡を辿った時に、あらためてイエスがエルサレムの城壁の外で十字架に架かってくださったことが胸に迫ってきました。
私も、愛する母国を離れて、今年で14年目を迎えます。
日本から遠く離れたこの欧州で、日本語を使い、欧州に散った日本語を話す人々を追いかけ、見つけ、福音を伝え、そして教会を建ち上げようとしています。それは、イエスが十字架の下で、新しい家族をつくることを命じてくださったからなのです。