フランスの週刊紙「シャルリー・エブド」本社襲撃で12人が殺害されたテロ発生から2日が経過
その日に僕は厳戒のパリ北駅から列車に乗り、500キロ北上し、オランダのハールレムに到着しました。
すると、ハールレムの美しい広場には「私はシャルリー」と、オランダ語圏であるにも関わらず
フランス語でのメッセージの垂れ幕がシティホールに掲げられてあり、今回の事件に哀悼の意を表していました。
そのように、哀しむ人々とともに哀しみ、言葉にしていく姿勢に共感します。
私たちは「なんて言葉をかけてよいのかわからない。」状況に立ち会うことがあります。
それでも、言葉にすることは大切なのです。
この日、事件を起こした犯人は、圧倒的な警察力により殺害され、事件は一応の幕を閉じました。(それを解決というのかは、よく解りません。失われた命は、失われたままです。)
なんとも居た堪れない事件で、おそらく僕自身の心も、無自覚に傷つき、深く悲しんでいます。
残された人々の慰めを祈らずにはいられません。
自分の中でも、巧く言語化が出来ずにいますが、それでも、今考えていることを整理しておこうと思います。
今回の事件の容疑者がもうこの世を去った以上、彼らの真の動機を誰も知ることはできません。
言うまでもなく、この行為には絶対に賛同できません。
多様な価値観をもつ私達が共生きるために必要なことは、互いに敬意を払うことです。
異なる考え、イデオロギー、宗教を持っている他者を暴力的に抹消してもよい、とするなら
共生は不可能になります。
欧州諸国は、徹底的に言葉を大事にする文化をもっています。
(時にはブラックな)ユーモアや皮肉も交え、弁証法的に論じ合うことを重んじます。
これは、キリスト教の深い言論文化が根付いていったプロセスとも関係があります。
その国で、宣教師として生きる者として、今回の事件は、そのような対話のプロセス抜きに
銃弾で、その存在そのものが消されて、否定されてしまうことに、根源的な恐怖を感じ、
怒りを覚えます。
その点で「私はシャルリー」だと言えます。
あらゆる権威に対して、暴力ではなく、対話や表現で挑むことが許されるということは
本当にかけがえのないことなのです。
でも、そのような知的な対話を学んでいない人々も多くいるのが、この世界です。
誰もが、同じ「知的なバトル」というリングに、対等の条件で立てるわけでないのです。
そのような時代を生きる私たちにとって、マス・メディアもまた権威です。
そして、言葉も表現も、ある人々にとっては、時として暴力になるのです。
「言論と表現の自由」を正義の楯にして、他者が大切にしている価値観を
「風刺という文化」の名のもとに揶揄する行為だったと受け取る者もいるのです。
今回、事件を犯した者たちは「狂信者」と言われます。
正直に言うと、僕もそう思っています。
ですが、「狂信」とはなんでしょうか?
「健全な信仰」と「狂信」を区別できるのは、果たして誰なのでしょうか?
僕もまた、ある人から見れば「狂信者」になるのではないのでしょうか?
でも、そのように真っ向から言われたら、僕はやはり寂しく感じると思います。
僕にとって「信仰」とは「関係」のことで、僕が大切にしている家族や友人たちを
誰かから揶揄されたら深く傷つくのと同様に、信仰対象をおちょくられたくはないのです。
二千年前のユダヤで、十字架に架かったナザレ出身の男こそ、自分の救い主だ。
そう、心から信じているのです。
イエス・キリストを愛し、日本での仕事を33歳で辞めてしまい、
家もなにかも売り払って、何も持たず、知り合いのいないイタリアにやって来ました。
当時、仕事場の上司からは「冷静に判断してほしい。人生を誤らないで」と
真摯な助言を頂き、退職を留意されました。
でも、わたしにとってイエスに対する信仰は、他の何にも替えがたいものでした。
想像したいのです。
イスラム教徒にとって、信仰の対象はムハンマドです。
イスラム世界では、ムハンマドの人物画は偶像崇拝につながりやすいとして回避してきました。
ですから、崇敬の対象を、風刺の効いたイラストにされることにショックを受ける人がいるのです。
なにが正しいのかという議論は、果てしないものです。
しかし正解を求めながら、愛を失ってしまったら、全ては無意味です。
愛するということは、他者のこと(その背景や価値観)をイマジンすることです。
そういったことを、今しばらく自分自身の宿題として、自分自身は「私はシャルリー」
というプラカードを掲げられるのだろうか、ということを考えていこうと思います。
10年前の今日
パリ 20150109
どんよりとした鈍色の空が広がり、時折冷たい雨が落ちてくるパリに到着しました。
オルリー空港や北駅には、マシンガンの引き金に指を置いた軍人が至る所に配置されています。
昨日のテロによって、パリはひどいショック状態の中にあり
戦後最大の戒厳令がひかれています。
路地裏に佇む、昔ながらのビストロでTさんと昼食をとりながら、たくさんの話をしました。
「今回の事件は、言論や表現をアイデンティティとするパリジャンにとって
その象徴ともいえる新聞社が襲撃されたということ。
これは、ニューヨーカーにとっての象徴であった世界貿易ビルが
倒壊したときと同じような衝撃があるのです。」
という氏の言葉がとても印象に残りました。
いつもは人気で、人が溢れるこの店も、昼時だというのにガラガラで
店のオーナに尋ねると、昨夜から客足はさっぱりだとのこと。
バスチーユ界隈は喪に服しているようでした。
このような中で、自分は来る日曜日にパリ教会で何を語るべきなのか
静かに神の前に静まり、備えていこうと思います。
10年前の今日
2015年のはじまり
2015年は、ミラノ賛美教会の講壇で越年礼拝のメッセージを取り次ぐことから始まりました。
開いた聖書は、ヨハネによる黙示録2章1-7節、『初めの愛に戻れ』ということばが主題です。
二千年前に、エフェソスの教会にあてられた手紙であり、2015年を迎えた僕にあてられた手紙
元旦の日は、静かにすごし、夕暮れ時をハンナと散歩しました。
2005年に我が家にやって来て、10歳になろうとする犬、全ては時を刻んでいます。
自分の原点を思い出し、初めの行ない回復する一年でありたいと心に願いました。
10年前の今日
to U
公園に住む水鳥がそれに命を與える
光と影と表と裡
矛盾も無く寄り添ってるよ
私達がこんな風であれたら…
デュッセルドルフの休日
先週木曜日からオランダ入りしていて、5泊6日にわたりアムステルダムと南部フェッセムで
クリスマスのバイブル・メッセージを取りついでいる。
月曜日に、唯一予定が入っていないオフ日があり、この日にドイツ・デュッセルドルフの友人を訪ねた。
彼らが制作の現場としているアトリエで、ハチミツを落としたチャイを飲み、レバノン料理屋でテイクアウトしたファラフェルを頬張り、絵画について語り合い、日が暮れてからはキャンドルを灯してターンテーブルで音楽をかけ、ビールを飲み、そしてたくさん笑った。
ただ、それだけの時間だったのに、本当に楽しくて、気がつくとアウトプットが続いていた時間がすっかりと充電されていた。
本当にありがとう。
また今度。
10年前の今日
ミラノへ戻りました。
今回の交通事故のことで、多くの方からご心配と温かいお言葉を頂き、一週間の療養期間
励ましと慰めを受けました。この場をかりて、心からお礼申し上げます。
本来お一人お一人にお返事を申し上げるべきところですが、いまだ長時間PCに向かい
キーボードを打つのがつらく、このようなブログという形でのご報告となること、ご容赦下さい。
昨日3月11日にレンタカーを運転し、スイスからミラノの牧師館に戻ってくることが出来ました。
帰途、スイスの高速道路のサービスエリアに立ち寄ると、日本が東日本大震災から3年目を
迎えたこと、いまだに原子力発電所や、復興の課題が残っていることが報道されていました。
思えば三年前のあの日も、私はミラノからバルセロナへと車で向かう中
日本での地震のニュースを知り、その時に観た津波の映像で、日本全体が
そのようになってしまったのではないかと、愛する日本の人々の安否を案じたのでした。
Milan ←→Barcerona 20110311-12
ミラノに戻ってくることが出来、犬と公園を散歩しながら、当たり前のように思っている
日常の尊さを、震災後の日本のことや、今回の事故などを重ねて思い巡らせ、祈る時をもちました。
今回スイスで大きなダメージを受けた私の車も、ミラノでのかかりつけの修理工場に
積載車に載せられ、アルプスを越えて戻ってきました。
馴染みのマエストロ(自動車修復の達人)も、修理可能かどうかを数日かけて
点検してみると言っておりました。
車のフレーム自体が歪んでいたり、ハイブリッドシステムのモーターやバッテリーが損傷
している場合などは廃車となる可能性があり、直せるとしても相当高額な修理代となり、
修復期間は数か月になるようです。
今日は、こちら側の保険会社に報告と相談に行き、彼らからのアドバイスで
今回は弁護士を立てて、事故の事後処理にあたることにしました。
早速、馴染の弁護士のところへ出向き、現在の体調や、今後の治療方針
仕事に必要な車が使えなくなっていることへの対応などを相談をはじめました。
何はともあれ、ここはイタリア、自分のペースで物事は進みませんが
忍耐をもって、全てを神様にゆだね、丁寧に今回の交通事故と向き合っていきます。
自動車修理工にも、保険屋さんにも、弁護士さんにも、今回のケースで
命が守られていることは、とてもラッキーなことだと言われました。
しかしそれは「ラッキー」なのではなく、神様の守りがあったのだと信じています。
そして、今日も与えられている真新しい一日に感謝が溢れました。
明日あたりから、無理をせず、出来る範囲で仕事に復帰していく所存です。
引き続き、むち打ち症の治療や、自動車の回復のことなどを
お祈りに覚えていただければ幸いです。
多くの方に助けられ、支えられているからこその自分なのだと強く噛みしめています。
10年前の今日
←今日もそこにいてくださってありがとう。
山に向かって目を上げる。

スイスで交通事故に遭う。
今は、この文章をスイスのホテルで書いています。
Weggisという、ルツェルン湖畔の小さな町に滞在して今日で四日目になります。
ようやく、肩の痛みが和らいで、キーボードで文章を打つ気持ちになりました。
何もせず(出来ず)、湖やアルプスを照らす光の移ろいだけを眺め、夜は静寂に包まれ、
目を上げれば満天の星空、朝は鳥の声で目覚めます。
事の顛末ですが、3月4日にミラノを出発し、オランダ・アムステルダム日本語キリスト教会と
Vessemのオランダ南部日本語キリスト教会で礼拝メッセージを取り次ぐため妻と犬のハンナ
にも同行してもらって、欧州を北上していました。
その日はドイツ・シュトットガルトのホテルに泊まる予定でした。
夕刻、陽も沈んできた18:30頃、スイスのルツェルンを過ぎたあたりで
渋滞の最後尾にいたとき、後ろから前方不注意の車にノーブレーキで追突されました。
私たちは、全く前触れのないまま強い衝撃を受け、車は大破し、救急車で
スイスシュ・ヴィーツ州のspitalschwyzという病院に運ばれました。
犬のハンナも車の荷台のキャビンに乗せていたのですが、無傷でした。
(車の後部はひしゃげ、犬用のキャビンは破損していたので奇跡的でした。)
事故現場から警察によって、スイスの犬用収容施設に引き取られていきました。
追突してきた人の車は、事故の衝撃で原型をとどめていませんが
エアバッグがすべて開き、運転者も無事でした。
44年生きてきましたが、人生初の救急車、しかもスイスで周りの言葉は理解不能なドイツ語
でも、救急隊員は救急車の中で英語で話しかけてくれ、気持ちが落ち着きました。
こういう場合の対処マニュアルなのかもしれないけれど、救急隊員はたえず何か、
私に話しかけてくれるのです。たとえば
「あなたは、犬をゲージにいれておいてよかったわね。毎日高速道路での事故現場に
立ち会うけれど、犬はそうしておかないと、車外に放り出されて死んでしまうのよ。」とか
「あなたはイタリアに住んでいるのね。スイスの医療体制は完璧だから、
イタリアではなく、この国での事故は不幸中の幸いよ。」などなど。(思わず笑いました。)
その日は脊髄のレントゲンや脳のMRIなどの精密検査を受け、そのまま入院となり
知らない(当たり前ですね。)スイス人のおじさんたちとの病室(大部屋)に移され
ここかどこの病院なのかもわからず、バッテリーが切れそうなiPhone(唯一の持ち物)
を握りしめながら、一睡もできない夜を過ごしたのでした。
事故の翌日の3月5日に、事故現場の近くに住まわれるスイス日本語福音キリスト教会の
メンバーであるご夫妻(ご主人がスイス人、奥様が日本人)の方が駆けつけてくださりました。
ドイツ語通訳をもっての医師との仲介、そして退院の手続き、警察との立会い、犬の引き取りや、保険会社や加害者との交渉、ホテルの確保などを献身的に助けてくださりました。
幸い検査の結果、私たちには、重大な損傷や異常や起きていないと診断され
一週間の安静を条件に退院を許可してもらい、スイスのホテルで経過をみてきています。
残念ですが、オランダでの大切なお仕事も、すべてキャンセルさせていただきました。
車も仕事もなく、人の助けが必要な状態で、静まりの時が与えられていることに
神様からの導きを感じ、天を仰ぎ、感謝しました。
やはり後遺症というものはあるもので、いわゆる【むち打ち症】と言われる外傷性頸部症候群
特有の首や肩の痛みに悩まされています。
まだしばらくは移動はしない方が良いのかも知れません。
今後の事故後処理の行く末(大破した車の保障や、後遺障害の有無など)
解らないことがたくさんありますが、多くの人に助けられ、祈られているからこそ
今日も生かされているのだと、不思議と感謝と平安の思いが与えられています。
10年前の今日
←今日もそこにいてくださってありがとう。
ラファエロ 「フォリーニョの聖母」
クリスマスの翌日、12月26日はイタリアではサン・ステファノの日
日本語の聖書でいうところのステパノ、教会史において最初の殉教者
キリストへの信仰を告白した故に、人々から石打にされて殺害されたステパノを覚える、
国民的な休日です。
イエス・キリストの降誕を覚えるクリスマスの翌日に最初の殉教者を記念する暦には
「犠牲の伴わない愛はない。」という意味があります。
久しぶりに大聖堂広場まで来ました。
いつ観ても、ため息が出るほど美しいDUOMOの建築
そしてヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア
ここへ来るといつもガラス張りのドームを口を開けたまま見上げてしまいます。
ガッレリアを抜けて、スカラ座前の広場へ出るとマリノ宮殿に行列が出来ています。
そう、今ここではRaffaello(ラファエロ)のMadonna of Foligno「フォリーニョの聖母」が展示されているのです。
僕も30分ほど並んで、その絵の前に立つことが出来ました。
ローマのサンタ・マリア・イン・アラチェーリ聖堂の祭壇画として木の板に油彩で描かれた作品です。
通常はヴァティカン宮美術館で展示されています。
1799年にはナポレオンによってフランスのパリに持って行かれてしまった作品で
1802年にこの絵画はパネルからキャンバスへと移され、ハイデルベルグで復元されたと言われています。
(キャンバスに木製パネルから絵を転送する技術は大変高度で、稀)
ラファエロの円熟期に描かれた最高傑作で、一応油絵を学んできた者から見るともう
「巧い」とかそういうレベルではなくて「何故に神様は一人の人間にここまでの才能とスキルを
お与えになったのだろうか。」と、溜息しかでません。
洗礼者ヨハネが、きっぱりと「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とイエス・キリストを
指し示している姿が心に刺さり、むしろラファエロより、洗礼者ヨハネのように自分も
生きていこうとなどど、圧倒的名作の前で思わされたサン・ステファノの日でした。
10年前の今日
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マンデラ氏の死と『遠い夜明け』
去る12月5日に地上を去ったネルソン・マンデラ氏
若くして反アパルトヘイト運動に身を投じ終身刑の判決を受け、27年間に及ぶ獄中生活の後、
1990年に釈放されるまでの道のりには、恐れずに声を上げ続けた人々の声があった。
アパルトヘイトのことを僕に教えてくれたのは、1987年に製作・公開された映画『遠い夜明け』だった。
そして、黒人解放活動家スティーヴ・ビコと、彼に歌を捧げたピータ・ガブリエルも10代の僕に深く影響を与えた。
久しぶりに、この音楽と映画がひとつになったミュージック・クリップを見て、自分のスタート地点を再確認した。
あれから26年経った。
そしてマンデラ氏も、スティーブ・ビコ氏も、地上の生涯を走りきって、この世界にはいない。
残されている僕も、彼らのように、伝えるべきことを一点の曇りもなく生涯伝えていきたいと、心新たに思わされています。
10年前の今日
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