20010913

親愛なる人へ
電話をありがとう。
僕たちを結んでいるエアラインや通信は脆い繊維で紡がれた糸のようで、
こうして繋がっていること自体が奇跡のようです。
テレビで、ガザ地区のパレスチナ人が狂喜している映像を何度もみせられました。
作為的な編集の意図を感じ、嫌悪を覚えました。
テレビメディアが世論形成を始めることに危機感を感じます。
愛する人を失い、途方に暮れる人々を映し出した数分後に、刹那的な笑いに満ちた
バラエティーショーを放送するテレビメディアはこの国の、深い病を象徴的に表していると
確信します。
北大西洋条約機構の動きを注視していますが情報が少ないと感じています。
最愛のあなたが暮らす国と僕の暮らす国をむすぶラインが今後隔たることがないように。
憎悪の連鎖が、これ以上複雑に絡み合い
継承されていくことがないように祈ります。

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20010911

僕はことばをもたない。
その術すら知らない。
こんなことは起こるべきではなかったのだ。
スローモーションの映像を前に、立ちつくすしかなかった。
時間を巻き戻すことはできない。
その地で暮らす3人の友人からは、無事を知らせるメールが届いた。
決してマスメディアは伝えない、本当の叫びが、魂を揺らした。
剣を抜けば、剣によって滅びる。
私達は無力で、これ以上の闇に包まれぬよう
祈ることしかできない。

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20010908

かつてあなたを陵辱し、その尊厳すら踏みにじった遺伝子は
やがて僕の血液となり、今も体内の奥深くに浸透している。
それなのに何故、あなたは僕が飢え渇いた時
温かな食事を整え、遠い井戸まで水を汲みに行こうとするのか。
僕の目の前に積まれた炭火は、壷の中の金属を溶かすように
僕の魂に、赤々とした熱と光りを放ち続けている。

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20010907

高校時代の同級生、ヨウスケが部屋に遊びに来た。
高校卒業後、フランスに7年滞在してDJをしていた男で
僕はパリで、40日間も彼の部屋に居候していたことがある。
彼が帰国して以来、二人でじっくり話す機会もなかったので
久しぶりにいい時間だった。

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20010906

久々に渋谷のセンター街を自転車で突っ切ったのだけれど
やっぱりすごいわ、あの町。悪い冗談みたいで、体にこたえる。
レコード屋にビョークとジャミロクワイの新譜が並んでいたので思わず買う。
出来ばえも、なかなかよろし。JKはサイケデリックなんだね。
友人がWiredのテイ・トウワ インタビューをメールで転送してくれた。
ものすごく共感。彼からはなかなか目が離せない。

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20010905

夕方仕事中にKから電話があり、打ち合わせで近くまで来ているので、
そのあと僕の部屋で、食事でもしようということになった。
久しぶりだったので、あれこれ情報交換しながらパスタを茹でていたら
赤唐辛子をフライパンに落としすぎてしまい、ペペロンチーノは
とても食べられる代物ではなくなってしまった。
二人とも一口食べただけで、その辛さに大笑いしてしまい
惜しいことにパスタはそのままトラッシュ缶行きとなった。
オレンジを搾り、ボンベイサファイアを落として少し酔いながら、これからのことを話した。
Kを地下鉄の入り口まで見送り、家に帰ると一時帰国している京都の友人から電話があった。
ドイツから関西空港に今日、降り立ったばかりだという。
その日に電話をくれたことが嬉しかった。
ふたたび回りはじめた日常は、表面がゴムのように穏やかに見えて、
それでいて流れの早い川に身をまかせるような感覚を僕に与える。
僕は背中で浮かぶようにして、その流れを受け入れ
そっと息をこらして目を閉じ、耳を澄ますことにする。

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20010826

デュッセルドルフから、アウトバーンで北へ500キロ
ボルボ850ワゴンに、食料とテントを積んで走った。

ハンブルグ付近の、地図に示された小さな町
そこまでくれば、その日限りの誘導表示が用意されている。

あとはその「しるし」に従って車を走らせれば
地名すらわからない広大な土地にたどりつく。

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2日目の夜に、満天の星空の下で死の谷を歩いたように思えた。

もしこのまま死ぬのであれば、そうなった経緯を
自分の愛する人には知って欲しかったなと考えた。

「馬鹿だな、信仰の薄い人だ。」そう聞こえた。
それは、叱責でも揶揄でもなく、優しい声だった。

手が差しのばされて、僕は声をあげて笑った。
チャイの屋台で、甘いチャイを飲み夜明けを待った。
横には、僕の友人がいた。

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そこは、この長い旅の最終目的地であり、答えだった。

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20010824

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デュッセルドルフに来て4日目になる。
友人との再開が一番の目的で、もっぱらアーチストのアトリエを覗いてまわったり
人を紹介されてばかりいる。
ドイツ語って、全然解らないよ。

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20010820

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時はバカンスで、月曜日のミラノは死に絶えたように全ての店がシャッターを閉じている。
センピオーネ公園で、ミラノトリエンナトーレが開催されているはずだったが、
案の定閉館していた。
公園でしばらくボーっとした後、ブレラ美術館まで歩いてみたが
これがまた閉館日。美術学校も、開けているアトリエはなかった。
ドゥオモのリナシェンテ地下で、キッチン用品を物色したのち
夕刻の大聖堂内部にはいると、柱がステンドグラスの色に発光していた。
家に帰り、宵闇がおりても、何故か睡魔は訪れず、明け方の4時まで
本棚の文庫本を片っ端から手に取り、日本語の活字を貪った。
三浦綾子の「道ありき」を数年ぶりに読み返した。
先日、大家のアンナに昼食に招かれた時
イタリア語版のこの本を見せられ「とても大切な本だ」と話していたのを思い出したのだ。
三浦綾子の著作は「道ありき」と「塩狩峠」がイタリア語に訳されて出版されている。
彼女の著作は「イタリア人の精神性にフィットしていると思う」
処女作の「氷点」を読んでみたいのだけれど、まだ伊訳されていないの。
アンナはそう言っていた。
「氷点」ってどういう意味なの?と聞かれた。僕は少し頭をひねって
「普段は心の奥底に隠されていて、ある場面で顔を出す、頑ななもの。」と答えた。
「原罪」の性質って言うことかしら、重い話題で、食事向きじゃないわね。
そんな会話を交わしたのだ。
でもデザートを食べているときに、アンナはもう一度僕に訪ねた。
「あなたの育った家には、信じる神がなかったのでしょ?」
「そうですよ。多くの家がそうであるように、両親は無宗教です。」
「じゃぁ、どうやって幼いころ、罪の概念を学んだのかしら?」
僕が再び頭を抱えていると
「ごめんなさい、ジェラードが溶けちゃうわ」
そういって、バニラに褐色のリキュールをかけてくれた。
僕は「道ありき」の再読後、今ならすこしはうまい言葉で説明できるのに
そんなことを考えながら眠りについていた。

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20010819

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仕事を兼ねて、ベネチアに4日間滞在していた。
初めて訪れたこの街にはとかく面食らうことが多かった。
近い将来、海に沈みゆくとも噂されるこの街には重厚な歴史と、
這い回り答えを探し続ける現代が鮮烈なコントラストを放っていて、眼球に痛みをおぼえた。
丹念に、ベネチア派の威光をひもといていく作業と、
今年で一世紀を迎える現代美術の国際展を検証する作業を
並行して行ったせいで、消化不良をおこしたのかも知れない。
ベネチアビエンナーレに関しては、すでに日本のメディアでも
様々な批評が氾濫しているのではないだろうか。
単純に、メディアアート一色に変遷を遂げたビエンナーレに驚愕した。
「絵画はもはや死に絶えた」とでも主張する気なのだろうか?
あるキュレイターが、「映像」という安易な言語に依存しすぎている。
そう、吐き捨ているように言っていた。
映像は果たして安易な言語か?反論もしたかったけれど
うまい言葉が見つからずに4日間が過ぎた。
今回のメインスポンサーは、テレコム・イタリアとマイクロソフトなどの
IT系企業で、液晶プロジェクターの見本市のような印象は確かに拭えない。
作品によっては、上映の頭に[ EPSON ]と言った具合に、スポンサードを
露骨に押し出す作品さえあった。
もっとも美術がスポンサードなしに自立していたことなどないのではないか。
イタリア美術史を紐解けば、それは明白なことだ。
朽ちないものと遷ろうものが隣り合わせする
儚いような美しさに「孤独」を意識させられた街だった。
もっともそれは単にひとりで連泊していた安宿が最上階の部屋で毎晩、
屋根の風見鶏がきしむノイズに悩まされ寝不足気味だったせいにすぎないのかもしれない。

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