毎年恒例のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による「ニューイヤー・コンサート」
ウィーン楽友協会大ホールで、今年指揮をしたのは小沢征爾だった。
日本人指揮者では初めてということで、渡欧する直前に彼が
NHKのキャスターからインタビューを受けている様子をテレビで見た。
そのやり取りはとても興味深く、彼の言葉は僕の心に深く刻まれるものとなった。
キャスター:
ウィーンの批評家からは、西洋の音楽を理解することは根本的に、
日本人には不可能なのではないのかという声も聞こえます。
小沢征爾:
僕は、たとえばモーツァルトやバッハの音楽に触れるとき、
それは人間が造った音楽だとは思えないのです。
彼らの自我や存在を押しつぶすようにしてどこか上から
降りてきたものなのではなかったかと思うのです。
真の美というのは、たとえばどこの国においても夕日の美しさが
人の心を揺らすような、普遍的なものだという仮説をもっています。
20020101
20011231
「実家なんて退屈なだけなんだけどね。」
そういいながらも、8月と12月に友人たちは
少しやさしい顔になり、決まって帰郷する。
僕は東京で生まれたけれど、故郷という感覚はない。
だから、そんな年中行事をうらやましく感じる。
僕なりに転々とした土地もあり、冬を過ごしたいと思う、懐かしい場所がいくつかある。
小笠原・那覇・宮崎・仙台・神津・ミラノ・・・
いくつかの土地には、もう自分を迎えてくれる人はいなくて
記憶のなかだけに正月がある。
中央線に乗り、モノレールの街に
ケーキをもって再び訪れた。
ここにも僕の愛する家族がいるのだ。
20011230
山手線に乗る。
新宿を歩く。
ヨドバシカメラ本店前の長距離バス乗り場には帰省支度をした人たちが、
少しはにかむようにしてバスを待っている。
そういえば身のまわりの友人たちもたしか今日あたり帰るのだといっていた。
東急田園都市線の車内もいつもより空いている。
東京生まれの人間にとっては、なんだか少し寂しい季節だ。
三宿と三軒茶屋むすぶ太子堂商店街は賑わっている。
路地裏で北風を受けている自由猫は、少し強がっていた。
明日はとてもひさしぶりに西多摩にある実家を訪ねようと思う。
20011121
とても久しぶりにアンドリュー・ワイエスの画集を開いた。
「ヘルガ・シリーズ」は、彼の作品のなかで最も優れていると思う。
自分の隣人であるドイツ人女性「ヘルガ」を15年にわたり
描き続けたこのシリーズは、発表当時スキャンダラスだった。
なぜなら、彼の作品をすべてカウンティングし整理・収集をしていた彼の妻、
ベッツィ・ワイエスですらこの作品の存在を知らなかったからだ。
シリーズの作品は全て、刺すような画家の眼差しと対象を溶かすような愛情に満ちている。
画家はこのシリーズとともに言葉を残している。
「ある人の芸術は、その人の愛の深さに比例したところまでいきつくものだ。」
この世を去る前に、何らかの方法で、私の奔放な自由と興奮を真実に結びつけたい。
20011110
実際のところ、わたしとはそのようなものだ。
同じ形をとどめることが出来ず、変容を繰り返す。
先日のコンファレンスで、養老猛司氏がこんな話をしていた。
「当たり前の話なんだけれど、私たちの脳は
二度と以前の状態に戻れない。
たとえば、同じ映画のビデオを5回繰り返し、見続けたとする。
すると、そのつど、見方や感じ方が変わっていくでしょう。
しかし、その映画自体は、寸分たりとも変わってはいない。」
わたしと、あなたの繋がりもそうでしょう。
絶えず、小さな崩壊と再生を繰り返している。
20011105
そういえば、似たような感覚を、この夏に 「私の物語を、お願いね。」
突然2枚のドローゥイングを、見知らぬ女性から手渡された。
その女性は、僕の斜め前の座席に座っていたのだが
上体を伸ばすようにして、僕のテーブルに突然差し出してきたのだ。
驚いて「何ですか?」と訊ねたのだが、何もいわずにこちらを見ている。
「あなたが描いたんですか?」と、さらに問いかけたのだけれど
返答はなかった。とにかく何も言わない。
あまり、相手の顔を見ていても悪い気がして
そのドローゥイングに視線を落としていたら、女性は消えてしまった。
アカデミックに囚われていない、悪くない線だと思った。
稚拙だけれど、何処か惹かれるドローゥイング。
ハンブルグの郊外で体験した。
そこは、明け方の牧草地だったのだけれど
自動車にもたれかかるようにして座っている女性に
「あなたの名前を教えて」と呼び止められたのだ。
一見、リゼルグ酸かMDMA系の依存症に見えたのだけれど
その女性の側までいって、腰を落として「Hi」と挨拶したら
突然、両手で顔を挟まれて
額と額をつき合わされ、こう言われたのだ。
20011029
夕方には、つよい風がふいた。
遠くのビルが、実体を失ったキューブのようにみえた。
20011006
](邦題:マーシャル・ロー)をDVDで観る。
昨年公開されたこの映画は、ニューヨークで頻発する自爆テロがモチーフとなっていた。
犯行声明も要求も不明のまま、アメリカ大統領は軍隊による戒厳令を布告。
デンゼル・ワシントン扮するFBIテロ対策本部長、
アネット・ベニング扮するCIA工作員
ブルース・ウィリス扮するアメリカ陸軍の将軍
これら三つの権力が鬩ぎ合う中で、ブルックリンが陸軍によって厳戒・閉鎖、
13歳以上の全てのアラブ系の男たちが収容所に連行され取り調べを受ける。
テロのネットワークを聞き出すために一人のイスラム教徒に
拷問を加えようとするブルース・ウィリスに対し
デンゼル・ワシントンが放つ言葉が印象深かった。
「大勢の命を救うという名目で、一人の命を奪えるのか?
では6人の命を奪うのはどうだ?何人までならOKか?
われわれは命をかけて、拷問のない自由で民主的な社会を築いてきた。
こんなことをすれば、われわれはテロリストと同じになってしまう。
こうやって彼ら(テロリスト)は私達を負かすのだ。
彼らは既に、私たちに勝利している。」
They’ve
already won
映画を見終えても、そのセリフだけが
頭から離れなかった。
20010914
僕は、創りつづけることを、決してやめたりしないでしょう。
繋がりあうことを願う魂と、僕の魂はつながりつづけ
あらゆる力も、それを切り離すことはできないでしょう。
たとえ世界が破壊にみち、明日の食べ物にこまるとしても
愛する人と囲む食卓には、花をかざることを願うでしょう。