SHEEP 群れを眺める。
毎朝の散歩道である、休耕中のトウモロコシ畑で羊たちが草を食んでいました。
犬ムスメのハンナは、その姿をいつまでも見守るように眺めています。
きっと、牧羊犬のDNAが流れているのでしょう。
ところで羊は英語では一匹でもSHEEP、群れでいたとしてもSHEEPで、単数形と複数形の綴りに違いがありません。
なんでだろうね。ハンちゃん。
それは、羊がいつでも共同体して生活する動物だったからだそうだ。
つまり、羊はいつでも「群れ」として考えられてきたのだ。
聖書も人間を羊に例える。
イエスも、自分を羊飼いだと言った。
旧約聖書の詩篇を読むと、羊飼い出身のダビデ王は、自分のことを神に養われる羊の一頭群として自分を捉えている。
いつも自分のことばかり考えてしまいやすい僕だけれど、群れの中のひとりとして、群れ全体に気を配って大切にして生きたいと思わされました。
神さまの目から見れば、僕一人もSHEEP、そして共同体もSHEEPなのだから。
そんなことを考えていたら、僕と犬の視線に気づいた親羊たちが、子供たちを連れて遠くへと群れになって離れていきました。
岸辺の旅
ミラノ郊外は、今日も霧に包まれていて、なんだか夢の中を歩いているような一日でした。
そういえば、最近不思議で、そしてとても素敵な映画を観ました。
黒沢清監督の「岸辺の旅」
夫の優介(浅野忠信)が失踪してから3年たった妻の瑞希(深津絵里)のもとに、突然失踪した夫が帰ってくる。
そして優介に「いろいろ美しい場所があるんだ。」と誘われるまま、旅に出るふたり。それは夫が失踪してから、自宅に戻ってくるまでの3年間でお世話になった人々を訪ねていく旅
そういう映画だ。
日本では2015年に上映されたみたいだけれど、そんなにヒットしなかったのかな。
第68回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で、日本人初の監督賞を受賞した作品で、欧州では評価が高い。
40代の男女の愛や、心模様を描いた作品って、日本よりも欧州の方が多いかもしれない。
上質で緊迫感のある室内劇の要素と、ロマンチックなロードムービーの要素が重なっていて、光や音の演出もあいまって、心の奥深くに染み入ってくる映画でした。
セーヌに呑み込まれそうなパリ
1月28日にパリの教会でバイブルメッセージを取り次ぐため、約二年ぶりにパリを再訪
この冬の大前の影響で、セーヌ川が記録的な増水で、洪水の危険も高まるさなかでした。
ちょうど、この日には水位がさらに上昇したことから、住民1500人が洪水発生の可能性に備えて避難していることがニュースになっておりました。
すでに川沿いの歩道は冠水し、目にすることはできません。
ルーブル美術館の地下展示部分(低層階にあるイスラム美術品の棟)が閉鎖されていました。
観光客用の遊覧船「バトー・ムーシュ」も橋の下を潜ることなど出来るはずもなく欠航中
そんなパリでしたが、日曜日の礼拝を終え、よく月曜日、ミラノに戻る前に嬉しい再会がありました。
パリ教会のMさん(写真右端)が、僕の芸術高校時代の同級生、Hさん(画面左端)との再会をセッティングしてくださり、ランチを共にしました。旧交をあたためる豊かな時間となりました。
その後、空港まで送ってくださるKさんが、道中オランジェリー美術館に立ち寄ってくださりました。
久しぶりのモネの睡蓮の部屋、網膜と心が洗濯されるような空間でした。
13年前の今日、生まれた犬
犬バカで恐縮なのですが、うちの犬娘のハンナが今日で13歳になりました。
人間の年齢に換算すると80歳ということになるでしょうか。
宣教師という仕事柄、生き物などを飼う予定はなかったのですが、
13年前に立ち寄った犬の保護施設で、引き取り手がなければ処分されてしまう仔犬と
その場で、即断で養子縁組してしまったのでした。
上は、出会ったころの写真ですが「そりゃ引き取っちゃうよ。」と今観ても、しみじみ思います。
その後、宣教犬として不思議な働きをしてくれて、疲れた人や哀しみをもった人にそっと寄り添う優しい犬としてここまできてくれました。
最近はすっかりお婆ちゃん犬で、我が家のソファで寝てばかりいます。
本当は人間の座る場所に犬がいることは「しつけの基本」ではNGなのですが、もうご隠居さんとして許しています。
犬の平均寿命を過ぎましたが、これからも元気でいて欲しいなと思います。
良き(犬の)家族に出会わせてくださった神様に感謝
嵐が過ぎた朝に
ようやく風邪が抜けました。
いつも自分の体と対話していると、休息が必要だったことが分かります。
昨夜は嵐の夜でした。
一夜明け、まだ鈍色の空に覆われているものの、空気が新しくなっているのを感じました。
また風邪をひいた。
先月(昨年末)は大風邪をひきながら、日本、イタリア、オランダ、スイス、フランス、スペインと巡回をしていた。
ようやく、風邪も治ったなーと思って迎えた新年、再び風邪をひいてしまった。かなしい。
自覚症状として、蓄積疲労があるなと感じていたので、今週末はすこし休養の旅に出ようかと考えていたのに、自宅で療養するしかないみたいだ。
今年は自分のまわり(イタリアでも日本でも)風邪をひいている人が多い。
そして長引いている。
12月風邪は、ウィルス性の急性咽頭炎から気管支炎へと移行してしまい、長く咳に悩まされた。
今回のは、鼻水がひどくて、壊れた蛇口のように鼻水が出てきて、頭がボーっとしてしまう。
こじらすとのどの痛み→咳と移行していきそうな予感がする。
そんななか、昨日は来る主日礼拝(今年最初の日曜日の礼拝)のためにメッセージを備えていた。
体に弱さを覚えて、心も細くたなびくような時の方が、聖書の言葉が深く染み入ってくる。
でも、日曜日にはすっかり健康を取り戻して、力強く御言葉を取り次ぎたい。
霧の向こうに行きたい
2018年になりました。
夜更けに雨が降ったようで、元旦の朝は、足元のぬかるみを少し気にしながら、ミルク色の霧の中を散歩しました。
心の中で聖歌の472番「人生の海の嵐に」が流れてきたので、声に出して歌いました。
いと静けき港につき 我は今安ろう
そのような港が与えられていること感謝を覚えつつも、まだ終着地への途上なのだなと噛みしめた1月1日の朝でした。
雨あがる。
クリスマスを過ぎてから、雨が降りしきる日々が続いたのだけれど、今日は朝日が眩い。
犬の娘のハンナは、水分を含んだ土や草木の匂いを楽しんでいました。
今年も残りわずか。
年の初めから、一年の終わりを意識して過ごしていれば「今年もあっという間だった。」とは言わないような気がする。
きっと人生も同じだ。
エンディングのことを意識して歩いて行こう。
クリスマスの朝
ミラノ郊外の自宅で、静かなクリスマスの朝を迎えました。
クリスマスを境に、重苦しかった冬の日々が、少しずつ春に向かっていくのを感じます。
冬至をすぎ、日照時間がここから増えてきます。
「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」というヨハネの福音書のことばが
キリストの降誕を覚えるとともに、勝利宣言のことばのように心に響きます。
欧州では、クリスマスは今日から始まり、来年1月6日まで続きます。
走り続けてきた体と心を少し休ませながら、クリスマスの喜びを噛みしめようと思います。
遠くの空は晴れている。
10月に10年暮らしたミラノ市内の牧師館から郊外の家に引っ越した。
ミラノ・リナーテ空港から車で10分ほど走ったところに拡がる草原の中にある家だ。
市内での「重い家賃負担」から逃れたいというのが、引っ越しの理由だ。
引っ越しの片づけも終わらないうちに日本へ飛び、それからオランダ、スイス、フランスと飛び回りようやく新居に戻って来れた。
昨日はスイスを朝に出発し、午後にミラノのアドベント・礼拝に連なることができた。
ここへ戻ると、自分のホームだと心から思う。
愛犬のハンナを、一か月以上預かってくれた教会メンバーのご夫妻から引き取った。
こんな旅ばかりしていて、この犬ムスメには、いつも寂しい思いをさせてきた。
もうすぐ13歳になる。
犬の平均寿命に達してきている。
犬に限らず、愛すべき存在達との時間にはいつだって限りがある。
だから自分に与えられている「繋がり」を大切にしたいと思う。
人は繋がるべきものと繋がっている時にしか平安を得ることができない。
今朝のミラノは零下で、草原を歩くと、パリポリと霜が砕けるような感触があった。
たくさんの課題を頭の中で整理しながら「遠くの空は晴れている。」という言葉が心に浮かんだ。