再びヴィチェンツァの夜

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Tさんが「ヴィチェンツァの郊外でビジネス・アポイントがあるので一緒にどうですか?」
と誘ってくださったので、一緒にとある革製鞄ブランドの工場にお供しました。
その後、二人でヴィチェンツァの街に出て、ヴィチェンツァ在住のバレリーナ、Yさんと
アペリティーボ
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夕食は古い建物を改装した大きなパブのようなピザ屋、ヴィチェンツァ在住ビジネスマン
であるO村さん(伏せ字になっていない)も合流し、リラックスした時間をもちました。
22:00過ぎにヴィチェンツァを後にし、TさんのBMW5ツーリング(E61)の運転席を
お借りしてミラノを目指しましたが、今夜も帰宅は日付が変わってしまいました。
穏やかながらも充足した日々の一日が、今日も終わっていきます。
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ヴィチェンツァでバレエ

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ヴェネト州の古都、イタリア屈指の芸術都市ヴィチェンツァ(Vicenza)で
私たちの教会メンバーであるYさんのバレエ公演がありました。
ミラノからは往復で400キロの道のりなのですが、車に乗り合わせてミラノから応援団(?)
を組んで駆けつけましたが、本当に素晴らしい舞台で会場全体が感動に包まれました。
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終演後、皆で花束を渡したくて、アーチスト専用エントランスで「出待ち」をしました。
メイクも落とさずに出てきたYさんと記念撮影、イタリア人に混じって、圧倒的に優雅な
演技で主演を成し遂げた彼女のことを、皆さんどこか誇らしげです。
帰りは雨の高速道路を巡航し、ミラノに着いたのは夜中の1:30でしたが
毎週日曜日の礼拝のために日帰りで往復されるYさんやOさんの情熱を思いました。
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卞在昌容疑者の起訴

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逮捕報道の時ほど、マスコミでの扱いは大きくなかったが(逮捕の時点で、検察の起訴は
織り込み済みだったのだろう。)卞在昌容疑者は今日から、刑事裁判の被告になった。
僕は、検察がどのような判断を下すのか、大きな関心を払いながら、逮捕から今日までの
三週間、祈りに覚えずにはいられなかった。
今日で拘留期限が切れることを知っていたし、この手の事件は証拠不十分で公判維持が
難しいと判断され、不起訴処分で釈放されることがあり得るとも考えていたからだ。
そうすれば、また日本のキリスト教会は平静を取り戻し、数年もすればこの事件も風化し
何も学ばずに、進んでいくのではないか。これが僕が危惧していたことでもある。
しかし、今後は戦後の事件史でも稀にみる特殊な裁判として記録され、いくつかの事柄が
明らかにされていくだろう。そのことを、一牧師としてせつに願っている。
そもそも、今回の起訴罪状の 「準強姦罪」とはどのような犯罪だろうか。
刑法178条2項によると、女性の心神喪失・抗拒不能に乗じ、又は暴行・脅迫によらずに
女性を心神喪失・抗拒不能にする行為である。
過去の判例では医師が、性的知識のない少女に対し、薬を入れるのだと誤信させて
姦淫に及んだ例などがある。(大審院大正15年6月25日判決刑集5巻285頁)。
通常人々は医者を信用して(性善説に基づいて)密室で医者から診察や投薬を受ける。
同じように教会に来る人々は、牧師を全面的に信用して、聖書の言葉を学び解釈する。
この聖書の言葉を、意図的に自分の欲望達成のために用いて解釈させ誤信させることを
医者が薬を悪用した例と同等に捉えられるのかが、今回の裁判のポイントになるだろう。
一牧師の私見だが(それが個人ブログというものだが)、医者が密室で睡眠薬を悪用できる
のと同じように、牧師が自分の聖書解釈に権威をもたせ、人々の純粋な信仰心を悪用する
ことは可能なことだ。
かくいう私は、牧師を目指して学びを始めたころに卞在昌容疑者に出会い、彼のフランクな
性格や、豊富な聖書知識、独特な神学解釈に心酔し、とても影響を受けた。
この麻酔から解き放たれるためには、自ら与えられている知性を尽くして、そして祈りつつ
自分の頭で考えながら聖書を読むことが必要だったし、それには結構な時間を要したのだ。
僕は、現在も国際福音キリスト教会に残っている友人たちと連絡を取り対話をすることが
出来たらと願っている。もう一度、関係を修復させることは不可能なのだろうか。
何か心に「揺れ」を感じたり、戸惑いを覚えているのならばそのことをシェアしてほしいし
決して僕が何かをジャッジしたり、責めたりしないということを信じて欲しいと思う。
おそらくは彼らからみて、ビュン容疑者に疑問を呈した私は「落ちた者」であり「サタン」なの
かもしれない。そしてサタンの言葉に耳を貸さないようにと、このブログも見ることは
ないのかも知れない。でも、僕は対話の機会を今も求めている。
彼らの事を、カルトなどと呼びたくはないが、一般的なこととして言えば
カルトのリーダーと、そこに集う信徒は、実は利害が一致している。
人々は、物事を断言し、自分の代わりに思考を代行し、行き先を指し示すリーダーを
潜在的に求めるし、カルトのリーダーは人々のそのような要求にこたえて生きている。
卞容疑者を特別な牧師だと信じ込ませた「麻酔薬」は、彼一人では創れなかったということ
そのことを、日本の教会のリーダーやクリスチャンたちには考えてほしいと思う。
もちろん僕も、このこと自分自身の問題として、痛みをもって考えていくつもりだ。
僕は卞容疑者の事を恨んでいない。いや、実のところ今も一人の人間として愛している。
残された時間の中で、真実を語る人として、卞容疑者に回復してほしいと今も祈っている。
そうして、日本の教会が、健康な「キリストのからだ」として回復していくことを願っている。
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スイスを発つ日

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スイスのI家にて、目覚めると、雪の朝特有の静寂に包まれていました。
新雪を踏みしみて、歓喜するのは我が犬娘、ハンナ
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何処までも、何処までも走っていきます。おーい。
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鉄砲玉のように、行ったきりの犬をNちゃんが呼び戻しに行ってくれました。
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数十分後、雪兎のようになって戻ってきたハンナを捕獲
すっかり雪のスイスがお気に入りですが、ミラノに戻ることにしましょう。
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ストラスブールでメサイア研究

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フランスはアルザス地方、ストラスブールの
日本人学生たち主体で始まった聖書を学ぶ会
今回でおそらく5回目くらいになります。続けてきてくださる人々が
新しい方にも声をかけるので、今回も14名の人々が集いました。
音楽学校の学生も多いので、今回はヘンデルのメサイアの歌詞をひも解く形で
聖書の御言葉を紹介し、解説しました。この手法は都立芸術高校のメサイア研究会
で学んだことがヒントになっています。
いつも新しい出会いと、再会の喜びがあり、充足感を覚えるときとなりました。
深夜フランスからスイスに向ける帰路では、ドイツのアウトバーン(黒い森のあたり)
で吹雪にあい結構怖かったですが、無事にたどり着き感謝でした。
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スイスにて

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スイスのIファミリーのお宅にお邪魔しています。
犬のハンナは、いつもこの家族に温かく迎えられていますが、今回Nちゃんによって
ハンナ専用のソファなども用意していただいていました。
ハンナもいたく気に入ったようで、のんびりと特設ソファでくつろいでいました。
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霧の朝

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日曜の朝、ミラノは乳白色の霧に包まれました。
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霧の向こう側に導かれるようにハンナと一緒に歩いていたら
明け方に見る夢の中にいるような錯覚を覚えました。
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雪の感触

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昨日、街のほうは積もらなかったけれど、公園のほうは一面真っ白になっていました。
ハンナはご機嫌な様子で、雪を踏みしめる感触を楽しんでいました。
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霙まじり

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お昼過ぎから降り出した雪、これは積もるかなと思ったのだけれど
夕方から霙まじりの雨に変わってしまった。
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大聖堂近辺では「大根おろし」のようになってしまった足元を気にしながら
ミラネーゼたちが足早に帰途についていました。
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牧師の逮捕



2010年1月28日、茨城県警捜査1課とつくば中央署は、準強姦の疑いで宗教法人
「小牧者訓練会」の代表者卞在昌(ビュン・ジェーチャン)を逮捕した。
日本のキリスト教会史において、牧師が準強姦の疑いで逮捕されるという事件は、
調べてみても二件しかない。
一件目が、未だに記憶している人が多いと思うが、2005年4月6日、聖神中央教会の
主管牧師であった金保牧師がその地位を利用して強姦、同未遂、準強姦を常習的に
犯行を重ねて逮捕された事件(懲役20年の判決が確定済み)以来の出来事だ。
どこかの異常な場所で起こった偽牧師による特異なカルト事件だと
切り捨てることができれば、対岸の火事のように眺めていることができるだろうが、
僕の中ではそのように消化できない。
「牧師が準強姦罪で逮捕される。」という事件を、僕自身はどのように捉え、
また祈っていけばよいのかと考えさせられている。
今回逮捕された、卞在昌(ビュン・ジェーチャン)氏は、僕自身がかつて
トレーニングを受けた神学校の校長であり、恩師である。
2003年4月から7月の間、実に三カ月間、卞さんの家に泊まりこみ、
私生活を含めて、牧師の仕事がどういうものかを教わった。
今でも、お世話になって、大変良くして頂いたと感謝している。
だからこそ、逮捕された今は、神の前に立ち返り、真実を語ってほしいと祈らされている。
かつて一緒に学んだ神学生たちが、今は、卞さんと、彼の教団によって性的な面や、
人格的な面で、人権を踏みにじられ、卞氏と教団、および関連団体に対する
「セクハラ民事裁判」と「パワハラ民事裁判」の原告団となっている。
僕自身は同時期に、そのような反社会的な事件にまで至る組織の体質や
下地というものを見てきたものとして、部外者ではいられないと示されている。
2008年ぐらいから、かつて共に学んだ神学校の同窓生や、友人たちから
個人的に相談を受けるようになっていて、このことの事実確認をしたくて、
日本に帰国し卞さんに会いに行った。
その時の彼の一言は「すべてはサタンの攻撃なのだよ。」であった。
日本のキリスト教会には独特なセクト主義があって、他の教会で起きている問題を、
ほかの教会の牧師が耳にしても、アンタッチャブルな問題として封印してしまう傾向がある。
だから、実際にこのようなケースに遭遇した当事者たちは、沈黙してしまうことが多い。
いつだって教会という組織が守られることが最優先にされるし、個人というのは
その組織の前には、いとも簡単に黙殺されてしまうものだ。
作家の村上春樹が「エルサレム賞」を受賞した際に次のようにイスラエルでスピーチをした。
 「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、
私は常に卵側に立ちます。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、
私は卵サイドに立ちます。
他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。
おそらく時や歴史というものが。しかし、もしどのような理由であれ、
壁側に立って作品を書く小説家がいたら、
その作品にいかなる価値を見い出せるのでしょうか?」

ちっぽけな一牧師である僕自身も、同じ気持である。
友人たちが勇気をもって立ち上がり、証言をし始めた時に、
彼らの傍に立っていたいと考えた。
なによりも、イエス・キリストは当時の宗教者たちと真っ向から対立、対決し、
彼はいつもカウンター・パートに追いやられた人々の隣人であり、
壁側には立っていなかった。
一年前の2009年一月に「宗教法人・小牧者訓練会による被害を受けた
女性達の救出と癒しを目的とする会という。」webサイトを立ち上がった際に、
彼らをサポートする牧師として実名を載せ、彼らの証人となった。
教会で起きた、口にするのも憚れる、忌まわしき出来事を証言していた彼らは、
狂人でもないし、ましてやサタンでもない。
また、このような情報発信によって、教団内部にいる友人たちにも
「このような証言者がいる。」という事実を知ってもらえるのではないかという期待があった。
しかし、このことで、さまざまな形で僕を攻撃してきたのは、残念なことに
他ならぬキリスト教会の牧師たちであった。
牧師が、牧師を告発するような形になったことで、日本のキリスト教会(業界?)
の暗黙のタブーを破ってしまったのだなと解った。
しかし、あの時にリスクを取って、彼らの側に立たなければ、僕は、
僕の罪を購うためにすべてを投げ出して十字架にかかったイエス・キリストに
顔向けできないと思っている。
私はキリスト教の牧師だが、ほとほと、宗教というものが嫌いだ。
ここでいう宗教とは、神の権威をかりて人間が作り上げたシステムのことで、
このような宗教組織は、神が命じていないことを人に命じ、重い荷物を負わせ、
人々の人生から多くのものを搾取する。
キリスト教国イタリアで、宗教ビザを頂き、牧師としての任命を受けているものだが、
キリスト教の歴史には恥ずべきことが多くあることも知っている。
しかし、僕はキリストに対して恥ずかしいと思ったことは何一つない。
僕自身はキリスト教を広めるのではなく、聖書に描かれたキリストご自身を
正しく伝えることが使命だと信じている。
キリスト教を愛しているのではなく、キリストを愛し、信じている一人の信仰者にすぎない。
「牧師が準強姦罪で逮捕される。」という事件を、牧師である僕はどのように捉え、
また祈っていけばよいのだろうか。
司法の場である程度のことは明らかになるだろうし、藪の中に紛れてしまうこともあるだろう。
必ずしも、司法で公義がなされるとは限らない。これもまた、人間が作ったシステムの一つに
過ぎないからだ。
今回の事件と聖神中央教会事件との間には、また刑事事件にまでは至らなかった
カルト宗教の社会的な問題との間に本質的な類似性を感じている。
警察が刑事事件として動かなければ牧師の懲戒ができないのであれば、
また被害者自身が重い負担をおって、民事裁判という手段をもって名誉回復を
目指さなければいけないのであれば、キリストの体である教会は、自らを省み、
神の前に悔い改めて再スタートするという「自浄作用」をもっていないと言わざるを得ない。
「牧師の罪は、たとえ知っても覆い隠せ。教会を守るためだ。」と言われたことがある。
しかし、聖書には牧師の不祥事に対する対応として次のように、明確に教えている。

「牧師が実際に罪を犯した場合は、教会員全員の前で責めなさい。その悪い例にならう人を一人も出さないためです。あなたがその牧師と親しい間柄であろうとなかろうと、公平に対処しなければなりません。」
(テモテへの手紙第一5:19-21 リビングバイブル訳)
私が暮らすイタリアでは、外務省データでは98パーセントがキリスト教徒であり、
地球規模では三人に一人はクリスチャンだ。
だから自分の信仰を告白して「へー、なんか宗教やっているんですね。」的な反応をうけることなどはない。
何故、日本ではキリスト教会は、人々の暮らしに溶け込んでいないのか、その原因は、まずは教会自身にあるのではないか。
何故、日本ではキリスト教徒が人口の1パーセントに満たないのだろうか?
社会学的な見地から様々なことがいえるだろうが、自らを戒める視点からいえば
日本の教会が「本物」でないからだろう。
密室で行われる牧師の卑劣な性犯罪の問題を牧師たち自身が庇いあい、
諸集会で招きあい、あっという間に事件を風化させ、問題を提起する人々を
教会から追放しサタン呼ばわりするのであれば、被害者の心痛はいつまでも
癒されることがないだろう。
今、日本のキリスト教会が、教会として痛みを伴う真実を直視する勇気をもたなければ
(真実、そして真理とは、痛みを伴うものだ。)今後も牧師が独裁者と化するような
カルト教会は生まれ、そこでは牧師の類似の犯罪やパワハラ、金銭の搾取で
逮捕者が出る可能性があるだろう。
日本のキリスト教会が、カプセルの中に閉じこもっているような閉鎖性を打破するために、
教団、教派を超えて、健康なキリストの体である公同の教会の姿を求めて、聖書に帰り、
悔い改め、祈り会い、話し合うことをはじめて頂きたいと、僕はせつに願っている。
日本の教会を批判したいのではなく、私自身を育ててくれた教会を愛し、
あきらめることができないという思いから、僕はこれからも自分に示されたことを
行動に起こし、必要であれば発言していこうと思わされている。
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