逮捕報道の時ほど、マスコミでの扱いは大きくなかったが(逮捕の時点で、検察の起訴は
織り込み済みだったのだろう。)卞在昌容疑者は今日から、刑事裁判の被告になった。
僕は、検察がどのような判断を下すのか、大きな関心を払いながら、逮捕から今日までの
三週間、祈りに覚えずにはいられなかった。
今日で拘留期限が切れることを知っていたし、この手の事件は証拠不十分で公判維持が
難しいと判断され、不起訴処分で釈放されることがあり得るとも考えていたからだ。
そうすれば、また日本のキリスト教会は平静を取り戻し、数年もすればこの事件も風化し
何も学ばずに、進んでいくのではないか。これが僕が危惧していたことでもある。
しかし、今後は戦後の事件史でも稀にみる特殊な裁判として記録され、いくつかの事柄が
明らかにされていくだろう。そのことを、一牧師としてせつに願っている。
そもそも、今回の起訴罪状の 「準強姦罪」とはどのような犯罪だろうか。
刑法178条2項によると、女性の心神喪失・抗拒不能に乗じ、又は暴行・脅迫によらずに
女性を心神喪失・抗拒不能にする行為である。
過去の判例では医師が、性的知識のない少女に対し、薬を入れるのだと誤信させて
姦淫に及んだ例などがある。(大審院大正15年6月25日判決刑集5巻285頁)。
通常人々は医者を信用して(性善説に基づいて)密室で医者から診察や投薬を受ける。
同じように教会に来る人々は、牧師を全面的に信用して、聖書の言葉を学び解釈する。
この聖書の言葉を、意図的に自分の欲望達成のために用いて解釈させ誤信させることを
医者が薬を悪用した例と同等に捉えられるのかが、今回の裁判のポイントになるだろう。
一牧師の私見だが(それが個人ブログというものだが)、医者が密室で睡眠薬を悪用できる
のと同じように、牧師が自分の聖書解釈に権威をもたせ、人々の純粋な信仰心を悪用する
ことは可能なことだ。
かくいう私は、牧師を目指して学びを始めたころに卞在昌容疑者に出会い、彼のフランクな
性格や、豊富な聖書知識、独特な神学解釈に心酔し、とても影響を受けた。
この麻酔から解き放たれるためには、自ら与えられている知性を尽くして、そして祈りつつ
自分の頭で考えながら聖書を読むことが必要だったし、それには結構な時間を要したのだ。
僕は、現在も国際福音キリスト教会に残っている友人たちと連絡を取り対話をすることが
出来たらと願っている。もう一度、関係を修復させることは不可能なのだろうか。
何か心に「揺れ」を感じたり、戸惑いを覚えているのならばそのことをシェアしてほしいし
決して僕が何かをジャッジしたり、責めたりしないということを信じて欲しいと思う。
おそらくは彼らからみて、ビュン容疑者に疑問を呈した私は「落ちた者」であり「サタン」なの
かもしれない。そしてサタンの言葉に耳を貸さないようにと、このブログも見ることは
ないのかも知れない。でも、僕は対話の機会を今も求めている。
彼らの事を、カルトなどと呼びたくはないが、一般的なこととして言えば
カルトのリーダーと、そこに集う信徒は、実は利害が一致している。
人々は、物事を断言し、自分の代わりに思考を代行し、行き先を指し示すリーダーを
潜在的に求めるし、カルトのリーダーは人々のそのような要求にこたえて生きている。
卞容疑者を特別な牧師だと信じ込ませた「麻酔薬」は、彼一人では創れなかったということ
そのことを、日本の教会のリーダーやクリスチャンたちには考えてほしいと思う。
もちろん僕も、このこと自分自身の問題として、痛みをもって考えていくつもりだ。
僕は卞容疑者の事を恨んでいない。いや、実のところ今も一人の人間として愛している。
残された時間の中で、真実を語る人として、卞容疑者に回復してほしいと今も祈っている。
そうして、日本の教会が、健康な「キリストのからだ」として回復していくことを願っている。
10年前の今日
←今日もそこにいてくださってありがとう。
自分で感じたり、思考するという事も、やはり大切なのかもしれないなあと思いました。いろんな事を問題提起してくれている話ですね。
NIKI様とまったく同じ気持ちです
>NIKI&akane
そうそう、自分の目で見て、考え続けることを
止めてはいけないと思います。