牧師の逮捕



2010年1月28日、茨城県警捜査1課とつくば中央署は、準強姦の疑いで宗教法人
「小牧者訓練会」の代表者卞在昌(ビュン・ジェーチャン)を逮捕した。
日本のキリスト教会史において、牧師が準強姦の疑いで逮捕されるという事件は、
調べてみても二件しかない。
一件目が、未だに記憶している人が多いと思うが、2005年4月6日、聖神中央教会の
主管牧師であった金保牧師がその地位を利用して強姦、同未遂、準強姦を常習的に
犯行を重ねて逮捕された事件(懲役20年の判決が確定済み)以来の出来事だ。
どこかの異常な場所で起こった偽牧師による特異なカルト事件だと
切り捨てることができれば、対岸の火事のように眺めていることができるだろうが、
僕の中ではそのように消化できない。
「牧師が準強姦罪で逮捕される。」という事件を、僕自身はどのように捉え、
また祈っていけばよいのかと考えさせられている。
今回逮捕された、卞在昌(ビュン・ジェーチャン)氏は、僕自身がかつて
トレーニングを受けた神学校の校長であり、恩師である。
2003年4月から7月の間、実に三カ月間、卞さんの家に泊まりこみ、
私生活を含めて、牧師の仕事がどういうものかを教わった。
今でも、お世話になって、大変良くして頂いたと感謝している。
だからこそ、逮捕された今は、神の前に立ち返り、真実を語ってほしいと祈らされている。
かつて一緒に学んだ神学生たちが、今は、卞さんと、彼の教団によって性的な面や、
人格的な面で、人権を踏みにじられ、卞氏と教団、および関連団体に対する
「セクハラ民事裁判」と「パワハラ民事裁判」の原告団となっている。
僕自身は同時期に、そのような反社会的な事件にまで至る組織の体質や
下地というものを見てきたものとして、部外者ではいられないと示されている。
2008年ぐらいから、かつて共に学んだ神学校の同窓生や、友人たちから
個人的に相談を受けるようになっていて、このことの事実確認をしたくて、
日本に帰国し卞さんに会いに行った。
その時の彼の一言は「すべてはサタンの攻撃なのだよ。」であった。
日本のキリスト教会には独特なセクト主義があって、他の教会で起きている問題を、
ほかの教会の牧師が耳にしても、アンタッチャブルな問題として封印してしまう傾向がある。
だから、実際にこのようなケースに遭遇した当事者たちは、沈黙してしまうことが多い。
いつだって教会という組織が守られることが最優先にされるし、個人というのは
その組織の前には、いとも簡単に黙殺されてしまうものだ。
作家の村上春樹が「エルサレム賞」を受賞した際に次のようにイスラエルでスピーチをした。
 「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、
私は常に卵側に立ちます。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、
私は卵サイドに立ちます。
他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。
おそらく時や歴史というものが。しかし、もしどのような理由であれ、
壁側に立って作品を書く小説家がいたら、
その作品にいかなる価値を見い出せるのでしょうか?」

ちっぽけな一牧師である僕自身も、同じ気持である。
友人たちが勇気をもって立ち上がり、証言をし始めた時に、
彼らの傍に立っていたいと考えた。
なによりも、イエス・キリストは当時の宗教者たちと真っ向から対立、対決し、
彼はいつもカウンター・パートに追いやられた人々の隣人であり、
壁側には立っていなかった。
一年前の2009年一月に「宗教法人・小牧者訓練会による被害を受けた
女性達の救出と癒しを目的とする会という。」webサイトを立ち上がった際に、
彼らをサポートする牧師として実名を載せ、彼らの証人となった。
教会で起きた、口にするのも憚れる、忌まわしき出来事を証言していた彼らは、
狂人でもないし、ましてやサタンでもない。
また、このような情報発信によって、教団内部にいる友人たちにも
「このような証言者がいる。」という事実を知ってもらえるのではないかという期待があった。
しかし、このことで、さまざまな形で僕を攻撃してきたのは、残念なことに
他ならぬキリスト教会の牧師たちであった。
牧師が、牧師を告発するような形になったことで、日本のキリスト教会(業界?)
の暗黙のタブーを破ってしまったのだなと解った。
しかし、あの時にリスクを取って、彼らの側に立たなければ、僕は、
僕の罪を購うためにすべてを投げ出して十字架にかかったイエス・キリストに
顔向けできないと思っている。
私はキリスト教の牧師だが、ほとほと、宗教というものが嫌いだ。
ここでいう宗教とは、神の権威をかりて人間が作り上げたシステムのことで、
このような宗教組織は、神が命じていないことを人に命じ、重い荷物を負わせ、
人々の人生から多くのものを搾取する。
キリスト教国イタリアで、宗教ビザを頂き、牧師としての任命を受けているものだが、
キリスト教の歴史には恥ずべきことが多くあることも知っている。
しかし、僕はキリストに対して恥ずかしいと思ったことは何一つない。
僕自身はキリスト教を広めるのではなく、聖書に描かれたキリストご自身を
正しく伝えることが使命だと信じている。
キリスト教を愛しているのではなく、キリストを愛し、信じている一人の信仰者にすぎない。
「牧師が準強姦罪で逮捕される。」という事件を、牧師である僕はどのように捉え、
また祈っていけばよいのだろうか。
司法の場である程度のことは明らかになるだろうし、藪の中に紛れてしまうこともあるだろう。
必ずしも、司法で公義がなされるとは限らない。これもまた、人間が作ったシステムの一つに
過ぎないからだ。
今回の事件と聖神中央教会事件との間には、また刑事事件にまでは至らなかった
カルト宗教の社会的な問題との間に本質的な類似性を感じている。
警察が刑事事件として動かなければ牧師の懲戒ができないのであれば、
また被害者自身が重い負担をおって、民事裁判という手段をもって名誉回復を
目指さなければいけないのであれば、キリストの体である教会は、自らを省み、
神の前に悔い改めて再スタートするという「自浄作用」をもっていないと言わざるを得ない。
「牧師の罪は、たとえ知っても覆い隠せ。教会を守るためだ。」と言われたことがある。
しかし、聖書には牧師の不祥事に対する対応として次のように、明確に教えている。

「牧師が実際に罪を犯した場合は、教会員全員の前で責めなさい。その悪い例にならう人を一人も出さないためです。あなたがその牧師と親しい間柄であろうとなかろうと、公平に対処しなければなりません。」
(テモテへの手紙第一5:19-21 リビングバイブル訳)
私が暮らすイタリアでは、外務省データでは98パーセントがキリスト教徒であり、
地球規模では三人に一人はクリスチャンだ。
だから自分の信仰を告白して「へー、なんか宗教やっているんですね。」的な反応をうけることなどはない。
何故、日本ではキリスト教会は、人々の暮らしに溶け込んでいないのか、その原因は、まずは教会自身にあるのではないか。
何故、日本ではキリスト教徒が人口の1パーセントに満たないのだろうか?
社会学的な見地から様々なことがいえるだろうが、自らを戒める視点からいえば
日本の教会が「本物」でないからだろう。
密室で行われる牧師の卑劣な性犯罪の問題を牧師たち自身が庇いあい、
諸集会で招きあい、あっという間に事件を風化させ、問題を提起する人々を
教会から追放しサタン呼ばわりするのであれば、被害者の心痛はいつまでも
癒されることがないだろう。
今、日本のキリスト教会が、教会として痛みを伴う真実を直視する勇気をもたなければ
(真実、そして真理とは、痛みを伴うものだ。)今後も牧師が独裁者と化するような
カルト教会は生まれ、そこでは牧師の類似の犯罪やパワハラ、金銭の搾取で
逮捕者が出る可能性があるだろう。
日本のキリスト教会が、カプセルの中に閉じこもっているような閉鎖性を打破するために、
教団、教派を超えて、健康なキリストの体である公同の教会の姿を求めて、聖書に帰り、
悔い改め、祈り会い、話し合うことをはじめて頂きたいと、僕はせつに願っている。
日本の教会を批判したいのではなく、私自身を育ててくれた教会を愛し、
あきらめることができないという思いから、僕はこれからも自分に示されたことを
行動に起こし、必要であれば発言していこうと思わされている。
10年前の今日
banner_01.jpg←今日もそこにいてくださってありがとう。

投稿者:uchimura_it|Comments (16)

コメント

  1. hide-tan より:

    これまで水谷潔先生のブログをはじめ様々な牧師たちがこの事件に言及されていましたが、卞在昌氏(本来は”容疑者”と書くべきかもしれないですが、内村さんの心情を察して”氏”とさせていただきます)に直接の指導を受けたことのある牧師からの真摯な思いに始めて出会うことができ感謝です。
    一方で、逮捕後も彼のs教会のホームページはもとより、小牧者訓練会関連の宣教メディアがこの件について悔い改めの表明もないことについてとても残念に思います。完全に「黒」であることが証明されてからということかもしれないですが、それでも何らかのアクションは欲しいです。
    この事件は、日本のすべての教会で語られるべきだと思いますし、今回の事件を通して自らを変える機会と機会とすべきだと思います。わたしも今回の事件を通して、神を本当に神だと思っているのか?罪の芽を真剣に自分のうちから取り除きたいという思いはあるか?ということを自分自身の問題として考えさせられました。

  2. ピリポ より:

    かつて、私の行っていた教会で信徒が牧師を訴えるということがありました。信頼してきた牧師と尊敬していた兄弟が争う場面を目の当たりにして戸惑いました。
    いったいどちらが嘘をついているのか。
    このことを考えるととても苦しい気持ちになりました。
    結局双方とも主張を変えずにそのまま立ちわかれとなったのですが、何が正しいのかわからなくなり、他人への不信感だけが残りました。教会の多くの人も傷つきました。もう10年以上前のことで私自身のトラウマは風化し、今では信仰生活も戻っています。
    今回のことで、私の知りうる範囲ではどちらが本当のことを言っているのかわかりません。
    しかし、もし嘘を言っている方が嘘を突き通すなら、それは今まで一緒に歩んできた兄弟姉妹の心を傷つけ、癒しがたいトラウマを植えつけるのだと自覚して欲しいと思います。「嘘をついていました」と告白することは自分の立場を危うくするかもしれませんが、そのことによって多くの人の心の重荷が軽くなるのだということを知って欲しいです。

  3. kobaken より:

    先生のお考えと、同じようにわたしも感じていました。
    覚えて祈っています。

  4. fuke より:

    自分を無神論者という私ですが、
    神の存在を信じているし、何よりuttieさんの
    祈りはいつも私にとってゆるぎない真実です。
    料理が美味しくできたとき、子供の笑顔に気持ちがほころぶとき、いつも感謝と共に、聖書を手に世界を飛び回る
    遠い友人を思い出します。応援しています。

  5. akane より:

    akaneです
    人と人というのは、あくまでも人と人であって
    組織と人ではない
    ということなのでしょうか。
    人と人との間には、そこには、水の流れのように
    常に変化するものが流れているということなのでしょうか
    そうだとしても、その中を
    道筋をみつけて、あるべきように
    そこを進もうとするというのは
    張り詰めた糸の上を歩くようではありませんか
    胸が詰まって、おもわず涙ぐんでしまいました
    それはとてもとても
    大事なことなのだと私が思うからなのでしょう
    私はキリスト教徒ではありませんし
    普段なにも考えていない 庶民に過ぎません
    でも、道徳だけでは救われないときも
    人にはあります
    それは、真心のようなものだとしか・・いえません
    真心というのは良心という範疇では足りませんね
    ただ真心をもって生きるというのは、
    時として
    そんなに切なくなるようなものなんでしょうか・
    わかりません
    ・・己の中の ・・・あろうとする力
    何か・・は わかりませんが、
    私はこれを魂のように感じています
    善悪や言葉では言い切れない、なんというか・・・
    その魂を抱いて進むことは
    私には ひとつの道しるべになる
    そう ふと思いました
    申し訳ございません
    なんだか涙ぐんでしまいまして
    意味不明なことばかり・・・どうぞお許しください
    身体に気をつけてください

  6. asaco より:

    ご無沙汰しております。シオンの群のasacoです。先生とは随分お会いしていませんが、このブログは欠かさず読ませていただいています。
    この事件については私も深く心を痛めており、
    自分のブログでも取り上げさせていただいています。
    今回の先生の記事、
    本当に深い共感を持って読ませていただきました。
    自分の感じている気持ち、抱いている思いに自身を持つことができました。
    ありがとうございます。
    また先生にお会いしたいです。

  7. スイトピー より:

    水谷先生のブログを見て、来ました。私は、沖縄のカルト化教会被害者です。先生のように被害者の痛みを理解して、被害者側に立ってくださる牧師がいる事、とても嬉しく思っています。
    先生のブログ、私のブログでも紹介させていただきたいと思います。

  8. aako より:

    Uttieさんが、権威に武装された組織より、弱者に寄りそってくださることを、嬉しく、心強く思います。辛いことでしょうが、どうぞ頑張って下さい。

  9. Rumiko より:

    まったく知りませんでした。ここ身近なところアメリカでも牧師の問題はニュースなどで知らされます。
    。。。がっかり、残念でなりません。
    私の視線でなく神様の視線でどうするのだろうかと。。
    牧師の罪も私の罪も同じようなものかとも考えています。が、信者の魂を預かるものとしては徹底して節度ある行動は必要です。
    好きな牧師の一人なので信じたくないです。

  10. ceci より:

    被害者の会のサイトを立ち上げられた頃、デボーションで「幸いな人」を使っていました。
    サイトで先生のお名前を拝見して、すぐにやめました。
    ずっと、何か相容れないものを感じていたからです。
    今までこのブログで、この件に関して何も書いておられなかったのは、悔い改めを待っておられたからでしょうか・・。
    今、胸の詰まる思いで記事を読ませていただきました。
    お気持ち、お察しします。
    私も、母教会がカルト的になったために出てきた者です。
    出るときに、洗礼を授けてくださった牧師から、「悪霊にやられている」と中傷されました。
    今もますます強権的になっておられる、と風の便りに聞いています。
    それでも、お世話になった感謝の気持ちは、今も変わらないのです。
    主が日本の教会に癒しの御手を差し伸べてくださいますように・・。
    先生のお心の痛みに、主が報いてくださいますように。

  11. haru より:

    初めてコメントをさせていただきます。
    (内容がそぐわない場合は削除してください)
    私は「神」を信じていますが「教会」を信じておりません。
    私が暮らす北米では、教会はどう考えてもお金を集める場であり、愛を分かち合う場所ではないからです。
    神の名をかたるビジネスと成り下がっています。
    これは日本の神仏と似たようなものです。
    (日本ではそこにさらにキリスト教が加わる必要もありません。建物の名前が違うだけです。同じ役割です。)
    キリストを信じる=遣わした神を信じる。
    神は地球上に沢山の聖人を遣わされました。
    教会であれ、お寺であれ、神社であれ、神からの使者が教えてくれた「愛」を知り、人々が愛で充たされる(思い出す)手助けをする場所になりますように、と願っています。
    過ちは正されるべきです。(罰せられる必要はありません。)
    怒りは何も生み出しません。愛は全てを生み出します。
    全ての方に神のご加護がありますように。
    失礼致しました。

  12. いつか より:

    私は約三年前にクリスチャンになったものですが、haruさんの気持ち、本当によくわかります。
    幸い愛に溢れる教会に導かれたので、このような問題はありませんでした。
    歴史の中にでてくるパスカル、ガリレイ、ヘレン・ケラー・・・など、身近な有名人がクリスチャンだったりします。
    過去にそのようなすばらしいクリスチャンが沢山いた反面、
    実は旧約聖書にも出てきているように、とてもむごい所をたどってきたのは確かです。
    自分が神になりたいという罪の本質が私たち一人一人にありますが、この牧師は残念ながら誘惑に負けてしまったのですね・・・。ダビデと重ね合わせます。
    ダビデもそうだったように、この牧師も悔い改めてほしいですね。
    自分が上に立つことよりも、神様のみなが多いにあがめられることを求めるべきなんだと神様から語られた気がします。
    競争社会、物質主義の誘惑に負けたくないです。
    どうか、本当の救い主・イエス・キリストが日本に多いにあがめられますように。 

  13. uttie より:

    >ALL
    コメントをくださった皆さんに感謝します。
    お一人お一人にレスポンスはできないのですが
    想いをシェアしてくださることで私自身も新しい
    視差が与えられたり、励まされる部分がありました。
    今後も事態の推移を見守りたいと思っています。

  14. ひまわり より:

    もうすでにレスは書き込まれてしまっていますが、敢えてコメントします。
    私の親しい友人に、ビュンさんの教会のメンバーがいます。彼女達のために祈っています。その教会から出ている『これは事実ではない』という内容の釈明の文書を読んでいるし、逆に被害者側からの話もウェブで両方読んでいます。
    しかし教会系であれ教会系でなかれ、カルトって、当然ながら、自分の集団をメンバー宛には悪く書かないし言わないものなのです。外部の悪口をどんな手段であれ、シャットアウトするものなのです。
    どちらにしても神様が、その友人を正しく導いてくれるのを祈るのみです。

  15. uttie より:

    >ひまわり
    コメントありがとうございます。
    私も、団体内にいる友人たちのために祈っています。
    彼らと割かれてしまっていることが哀しいです。
    真理が示されていくよう、祈っていきたいですね。

  16. M より:

    卞氏が某宣教団体の宣教師として来日し、札幌の教会に赴任して来たのは1981年か82年でした。教会は非常に成長し、礼拝人数は100名を越すようになりました。その時、献身者たちに卞氏が牧師や男が陥りやすい誘惑を3つあげて注意しました。
     1.金
     2.この世的名誉と権威、権限
     3.女
    私はその時まだ若かったので『へー、そうなの』と半信半疑でした。
    真実や本当のことが公になることも大切ですが、被害者や関係者や当事者のために祈りたいです。

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