日曜の朝、土砂降りのミラノを出発しスイスへ向かう。
スイスに入ると、雨が強まったり弱まったり、晴れ間が出たりと天気がコロコロ変わる。
来週には全て落ちてしまうだろうなという木々の葉が美しく紅葉していて、山の上には
今積もったばかりという雪が、砂糖をまぶしたように化粧を施していた。
スイスのチューリッヒ近郊のウスターの教会で礼拝メッセージを取り次ぎました。
クンツ・ルツ宣教師が心を一つにして、日本語をドイツ語に同時通訳してくださりました。
久しぶりにお会いする方、初めてお会いする方、礼拝後に軽食を共にしながら
出会いの恵みを味わうことができました。礼拝中、犬のハンナは教会の子供たちに
一緒に遊んでもらっていました。
10年前の今日
←今日もそこにいてくださってありがとう。
秋の味覚
キッチンに栗を炒った香ばしい香りがひろがると、犬娘のハンナがやってきました。
秋の味覚を味わいたいと、おねだり視線ビームを浴びますが、あげるるわけにはいきません。
夜は、ベルギーから旅行できているO君をお迎えして近所のシチリア料理屋さんへ
ここのシェフが、目の前でマグロのたたきに味付けをしてくれるのですが、とても美味
食後に、シチリアのリコッタチーズを蜂蜜で練ったカノーロをこれまた目の前で作ります。
O君が「おおっ」といって一眼レフカメラを構えるとカメリエーレもポーズを決めていました。
最後の食後酒で少しほろ酔いになりましたが、明日からは僕も旅暮らしが始まります。
家に帰って冷たい水を一杯飲んでから、パッキングを始めることにしましょう。
10年前の今日
←今日もそこにいてくださってありがとう。
互いにつぶやきあう
新約聖書のヨハネの福音書を読むと、イエス・キリストはユダヤ人に対して
「互いにつぶやくのはやめなさい。」と発言している。(ヨハネ6:43)
イエスの教えに反して(?)最近の私は、互いにつぶやきあっている。
そう、twitterで。
twitterって、どう面白いの。何の意味があるの?と質問されるがうまく答えられない。
何の意味もないかもしれないし、数年後にもやっているのかは定かではないのだが
不思議と新しくて、懐かしい感覚があるコミュニケーションツールなので、試している。
というか、つぶやいているし、他の人のつぶやきに注目している。
同じ時に、別々の場所で人々関連した事をしている共時性(シンクロニシティ)を感じたり
お互いのつぶやきに影響をうけあっていたり、その人のつぶやき自体がニュースだったり
140字という文字制限ゆえに、つぶやく人の個性がみえてくるところ
そのあたりに面白みを感じているのかもしれない。
twitterが面白くなるか、ならないかは誰をフォローするかで決まる部分も多い。
他のtwitterをやっている人々はどういうところに魅力を感じているのかも知りたいところです。
同じ時代を生きている出会いの恵みに感謝して、このtwitterでつぶやいてみようと思います。
10年前の今日
←今日もそこにいてくださってありがとう。
ミラノの風景
ミラノに来て最初の四年間暮らした家の近所にある公園を、久しぶりに歩きました。
貰って来たばかりの小さな仔犬だったハンナと毎日のように来た公園だったから
ハンナも懐かしく覚えているように思えた。
公園のすぐそばにあったRolling Stoneという大きなディスコはつぶれていたし、
公園のメリーゴーランドはもう回転していなかった。
街の景色も、それを見つめる僕も、少しづつ変化し続けている。
10年前の今日
←今日もそこにいてくださってありがとう。
ある光
一日雨が降った翌日いつもの公園に行くと、光があまりにも眩い。
潤った土地が、公園の木々が、葉っぱの葉脈ひとつひとつが、光の源を賛美していてる。
昨日の憂鬱に思えた雨に対する答えが、今日の光だ。
もっともっと光を、僕も光合成するように自分の中へと迎え入れたい。
10年前の今日
←今日もそこにいてくださってありがとう。
日曜市場と礼拝賛美
朝目覚めると、わが家の前の通りが歩行者天国の市場になっていました。
年に一度くらいあるんだよな。
ブラスバンドが行進したり
歩道の上に遊具のアトラクションが出来ていたり(写真にはないがポニーもいたりした。)
いつもの通りが非日常的な景色に様変わりしていました。
クリスマスのリースやアドベントクランツ(クリスマスの四週前から、一週間に一本ずつ
蝋燭を立てるクリスマスリース)などが並ぶと、そういう季節だなと感じます。
今日は礼拝の後に、聖歌隊によるコンサートがありました。
(技術はもちろん)霊的にも素晴らしく、多くの人の魂が共鳴するように揺さぶられました。
とくに、日本人であるM上A香さんが韓国語でソロパートを賛美されていましたが
発音の自然さに韓国人の聴衆が驚いていました。素晴らしいギフトを与えられています。
10年前の今日
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十七歳の自画像
ある日以前勤務していた、都立芸術高校の同僚であるマチダ先生から電子メールが届き
一枚の画像が添付されていて、メール本文にはこう書かれていた。
「この絵に心当たりがありますか?キャンバスの裏にS(昭和)61年-内村伸之
と書かれています。学校の地下倉庫を整理していたら見つけました。」
びっくりしたー。もちろん心当たりがある。僕がこの学校の生徒だった17歳の時に
授業の課題で自画像を描かされたときのものだ。
いやはや、突然タイムマシーンに乗って、17歳の自分が訪ねて来たみたいで
添付画像を開いた時は、椅子からエビ反りにのけぞって倒れ落ちそうになった。
この自画像を描いた時のことは、妙に覚えている。
当時付き合っていたガールフレンドから突然フラれた頃
ウォークマンで尾崎豊の『十七歳の地図』を聴きながら
自分が受け入れられなくてもがいていた、イケていない私
「植物と自画像を構成しなさい。」という美大予備校的なテーマを与えられて描いたのだ。
自分の絵の下手さに落ち込んでいた頃で、悶々としながら放課後のアトリエで描いた。
アトリエに差し込んでいた、夕方の光、駒場高校のグランドでサッカー部が練習する音
油絵の臭いが、ついこの間のことのように思い出してしまった。
それにしても暗すぎる。というか、この自画像ちょっと病んでいる。そして致命的に下手だ。
油絵をキャンバスにたたきつける行為を知らなかったらバスジャックとかしたかも知れない。
突然、40歳の僕を訪ねて来た、17歳の不自由だった僕に、こう言ってやりたい。
「君は絵画の技術的な問題なんて、この数年後に結構あっさりクリアして、
希望していた美大の油絵科に一浪してから入学するんだよ。そこから先が
ビジュアルの世界はミステリーなんだ。テクニックは前提であってテーマじゃない。」
「さらに数年後には、今度はこのアトリエに教師として戻ってくる。そのあと、
いろんな世界に行くから英語の授業は、もう少し真面目に受けるといいよ。」
君は、年を重なるごとに自由になるよ。そして、40歳になってから
17歳の自分から、もう一度絵筆を握ることを催促されるようになるんだ。
10年前の今日
←今日もそこにいてくださってありがとう。
蓮華草とタンポポ
うん、風邪は治ったぞ。と完治宣言をしてみました。
だるさから解放されて、二日ぶりに外出(ハンナにとっても二日ぶり)
犬にとって公園の自然は日々移り変わるらしく、ハンナは二日のブランクを埋めようとする
ビジネスマンが溜まっていた二日分の日経新聞を読むように木々の変化や、
咲いたばかりの草花を丹念にチェック、小さな蓮華草にも目を留めていました。
人間よりも豊かな感性で、自然に反映される神の臨在感を喜んでいるようなハンナ
緑の上で飛び跳ねるたびに、タンポポの白い種が風に舞っていきました。
やがて冬の終わりを告げる黄色い絨毯になって、僕とハンナを喜ばせてくれるでしょう。
10年前の今日
←今日もそこにいてくださってありがとう。
おあずけ
流行には敏感なので、風邪をひいて熱を出し、二日間ほど寝込んだ。(現在は完治)
「あー、ひいてしまった。」とわかった時は無理をせずに、「休むことも仕事だ。」
と自分に言い聞かすことにして、きちんとおとなしく過ごしていました。
「そういう訳ですから、今日の公園散歩は中止します。」とハンナに告げたら
完全に不貞腐れていました。散歩と食事だけが人生(犬正?)の楽しみですから。
そういえば、ハンナは一度も風邪をひいたことないな。
10年前の今日
←今日もそこにいてくださってありがとう。
たずね犬
ここのところ、わが家周辺に、せっせと張られている白黒コピーの張り紙
「10月12日の夜九時に、この近くの通りで私の大切な犬を見失ってしまいました。」
さらに、犬の特徴が丁寧に書かれていて情報を求める電話番号が記載されている。
写真の犬も、はぐれてしまった飼い主さんを探し続けているように見える。
しっかりと繋ぎあわされているべき関係が、ほどけてしまっているというのはとても悲しい。
はやく結びあわされる時が来ると良いなと、その貼り紙を見るたびに思う。
もし、飼い主と犬が再会できたなら、そのことも張り紙にしてくれたら嬉しい。
『いなくなった犬を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』
10年前の今日
←今日もそこにいてくださってありがとう。