今日はT君が家を開放してくださり、彼の家のバルコニーで男たち四人が集まり「焼肉の夕べ」
暮れてゆくミラノの空を眺めながら、豚バラを韓国風の味付けで、おなか一杯頂きました。
食後はのんびりと日本のテレビ「ブラタモリ」などをみて、寛いだ楽しい時間となりました。
10年前の今日
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ミラノ おめかしをした車
ミラノはSALDIと呼ばれる、夏のバーゲンセールのシーズンに突入しました。
ちょっとお店でも見て回ろうと思って、ジェノバ通りを歩きました。
道端に駐車している、トヨタのIQという小型車、二人乗りのサイズで四人乗れるので
駐車スペース不足のイタリアでは人気の日本車です。
この車のオーナーさんは、白いIQに口紅と「つけまつげ」をしてあげていて
なんだか車も嬉しそうです。
10年前の今日
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再びサグラダ・ファミリア
ちょうど一年ぶりに、バルセロナの聖家族贖罪教会(サグラダ・ファミリア)を再訪した。
建築物の中にいるのではなく、まるで体内回帰したかのような有機的な空間に包まれる。
それぞれ、種類の異なる大理石を配置し、色彩を響き合わせている。
人々の視線を天に向けさせ、会堂自体が被造物として、聖なる、聖なる、聖なるかなと
創造主をたたえているかのようだ。
100年以上前に、ガウディがこの完成のイメージをもっていたとは、本当に驚くべきことだ。
10年前の今日
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番犬気どり
ハンナはいつも窓辺に佇みながら、道行く人の気配に耳をそばだてている。
日頃見かけない宅配便の人や、広告のチラシを入れにくる人がいると低く唸って見せる。
人に吠えないようにしつけているので、「ウーッ」と声を出すと叱られるハンナ
本当は先祖代々、そういう風に外からの侵入者を知らせれば褒められていたはずだ。
「良いこと」と「悪いこと」が、時代と場所によって変化してしまうのはちょっと理不尽だよね。
過去の「良いこと」だったDNAが今日もハンナを番犬気どりにさせている。
ハンナとしてはただ、いつも何か役に立ちたいと考えているんだよね。
10年前の今日
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つよしくん
きょうは つよしくん が はんなの いえにきました。
つよしくんは まいにち たくさん とれーにんぐして
からだに きんにくがつきました。
はんなは おとこのひとの うでの きんにんく に
けっかんが もりあがるのが すきです。
でも ないしょです。
10年前の今日
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ある日曜日
今日もミラノは真夏日、午後の礼拝時間には気温もピークに達しサウナ状態なのですが
それにも負けず、賛美隊の熱い歌声を皮切りして、ミラノ賛美教会の礼拝がはじまります。
礼拝後はナヴィーリオ(運河地区)のT&Y夫妻の家に流れ、ピザなどを買ってきて
日本のテレビ番組(すべらない話)などを観ながら、皆で笑ったりと寛いだ時間をもちました。
この家の猫ムスコ、ゾロ君は相変わらずイケメンで、皆に甘えつつも、すまし顔を保っています。
10年前の今日
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隣の芝生
ハンナがさっきからずっと、ベランダの柵越しに何かを見つめています。
それは、下の階のフィリッパちゃん(♀)、地上階に暮らす犬の特権として、アパートの
共有スペースの芝生を、自分の庭のように使えるのです。(ほかの階の犬は禁止)
「あの子だけズルいわー、私も芝生のお庭で一日ゴロゴロしたいな。」とハンナ
隣の芝生は、ワンコにとっても青く見えるようです。
なんか悔しいからベランダで育てられているシソの葉食べちゃお。むしゃむしゃ。←こらっ!
10年前の今日
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映画『息もできない』
『息もできない』という韓国映画を観ました。結論から言うと
「あなたがもしまだ観ていないのなら、TSUTAYAですぐ借りてきて。」
最近僕の周りでは、邦画ファンであったのに「もう韓国映画しか観ないよ。」
と転向してしまう人が増えているのですが、それも解る気がしました。
うまく表現できないのですが、なんというか「分厚さ」が違うのです。
もの凄い荒削りなキャラクターや物語の設定に、超繊細な表現が散りばめられている。
日本映画が、私小説的で、私と半径5メートル以内の世界を描いているような作品が
多いのに対し、韓国映画は徹底的に「繋がり」や「連鎖」のようなものを描いている。
旧約聖書の、カインとアベルの物語から引き継いでいる哀しさのようなものや
誰が悪人で、誰が善人と二元論に分けない人間観、血縁、友情、男と女といった主題
とはいえ、この作品から北野武作品の影響も感じ取れるし、日韓は互いに響き
合っているのかも知れません。
ネタバレにならないように、感想を描かなければいけないのだけれど、
この作品の肝は、罪人のように生き、死んでいった人によって、残された人々が
結ばれていくという世界観に、キリストの生涯を重ねた部分がありました。
10年前の今日
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あたしはここよ
はんな です。
いぬ です。
きょうも せんたくものが よく かわきます。
きょうりゅうの こうえんに いきました。
きょうりゅうの こうえんは きょうりゅうが しゅやくです。
でも あたしも います。わかりますか。
10年前の今日
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眠りの神学
「眠りの神学 」と題された、 J.ベイリーという牧師の?教集があるらしいのだけれど
初版が1970年で、その後、絶版になったらしく、どこで探しても見つかりません。
それだけに、この本のタイトル「眠りの神学 」という言葉がとても魅惑的に響きます。
最近の僕はよく「眠り」には何か神秘的な秘密が隠されていると感じています。
聖書の中には、「眠り」ということばは、重要なキーワードとして散りばめられています。
アダムが神に眠らされて、目覚めるとエバが与えられていたり、
嵐の湖で、弟子たちがパニックになっているというのに、イエス・キリストは
船の舳先でぐっすりと眠って見せたりするのです。
そして、最近の私は、重要な仕事に取り組んでいる時(主に説教の準備の時など)
に、様々な思考が重なり合って、混乱しそうになると猛烈に睡魔に襲われ、机の横にある
ソファの上で失神するように眠ってしまうのです。
そして、たいてい現実と夢の区別がつかないような不思議な白昼夢をみて、目覚めます。
すると、さっきまでの思考の混乱が整理されていて、自分が取り次ぐべき言葉が
すっきりと整理されていることがあるのです。
今、僕の心には、旧約聖書の詩編にある次の御言葉が刻まれています。
あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。
主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。(詩編127:2)
10年前の今日
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