京都でおきた塾講師が小6女児を刺殺した事件を知り
とても強い衝撃を受けました。
ただ、このBlogでは時事的なものにコメントしたり
評論するようなことはあまりしたくありません。
ただ、自分自身の体験と重なり、血の通った言葉にすこしでも
近づきそうなときは、日常の記録とあわせて記録したいと思います。
この事件(塾講師小6女児刺殺)がおきて、塾講師であった学生が
在学している同志社大学の学長が次のような声明をだした。
緊急声明を出すこと自体はとても素晴らしいのだけれど
僕はその内容を読んで「あららら」と驚いてしまった。
それは
「被害に遭われたお子様のご冥福を心からお祈り申し上げます。」
という一文
同志社大学って周知のごとく、新島襄(明治の宣教師であり教育者)
が設立した日本でも屈指の伝統をもつキリスト教主義の大学ですよ。
その大学の学長の「心から」の「お祈り」が「お子様のご冥福」なのか?
「冥福を祈る」って、「冥土でお幸せに」と、祈ることです。
冥土はもちろん仏教用語で
「死者の霊魂の行く世界。あの世。地獄・餓鬼・畜生の三悪道」(大辞泉:小学館)
つまり死者が迷い込んでしまう場書
仏教では、亡くなった人は49日間冥土をさまよい、生前の行いに対する裁きを受ける。
生前の行いによって次に転生する世界が決まると言われている。
「冥福を祈る」とは、冥土の旅を無事終えて、良い世界に転生できるように祈ること。
残された親族が一生懸命祈ることで魂が浄化されるという説から生まれた言葉だ。
もちろん、一般的には「哀悼の意」を表す意味で、
習慣的に使われることは理解します。
それでも葬祭のマナー本などにも「仏教用語であるため、神道やキリスト教など
他宗教の人に対しては使わない。」と書かれている。
それは理解しつつも、同志社の学長の声明文で使われていることに違和感を覚えた。
心からそれを祈らないのなら、形式的な空分を使うべきではない。
ちなみに日本の仏教徒の方であっても、浄土真宗の方には
やはり「冥福」は祈らない。
ご遺族に「ご冥福をお祈りします」とご挨拶されることは、
「亡くなられた方は、冥土(冥途)へ迷い込んだ」と言うことを意味し、
「お浄土の故人を侮辱する無責任で心ない表現」と言えます。
(浄土真宗:「弔辞の例文」より)
同志社大学の建学の精神には、高校教師時代にも大きく影響を受けてきたし、
今も尊敬しているので愛故に、あえてこだわって苦言を呈したい。
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投票してくれる方、いつもありがとう。
初めまして。
突然ですみませんが、もしこの状況下で、同志社大の学長が「来世での祝福をお祈りいたします」などと言ったならば、かえって怒りを買うに違いないと思います。キリスト教では未信者の死についてはできれば触れないほうがいい位、下手に触れると異端視されるぐらい、微妙で繊細な問題だったはずですし。
「追悼の意を表明します」位ならまだましなほうかと。
>TK
はじめまして。コメント有り難うございます。
私も、一番適切な言葉は 「追悼の意を表明します」の趣旨を心を込めて伝えることだと思います。
はじめまして
要職につかれている方の場合、専門的、権威的になりがちなところを、自分の地位、立場を置いて、遺族側の心情を配慮し、相手に沿うように表現している学長の心の持ち方に対し良い印象を受けました。
一般的なプロトコルを使用しただけなのかもしれませんが。
一市民としては、被害者、加害者という非常に繊細なところを配慮した表明であると受け取りました。
私は宗教に詳しくないので、興味深く拝読させていただきました。心からそれを祈らないのなら、という文章に、驚きました。キリスト教は厳格ですね。
>智
はじめまして。貴重なコメント有り難うございます
この事件は、イタリアでも大きく報道されています。(日本では、あまり続報は聴かれないのでしょうか?)翻訳ということを考えると、やはり同志社大学は神学部をもつキリスト教大学ですから、その学長のコメントが仏式の挨拶として翻訳されれば違和感はあると思います。
「哀悼の意をわらわす。」と「冥福を祈る。」は
やはり異なる概念だと思います。
でも、智さんがおっしゃるように「自分の地位、立場を置いて、遺族側の心情を配慮し、相手に沿うように表現する。」という姿勢は本当に大切だと思います。
僕自身、視点をあらたにもつことが出来ました。