「人間の価値について」津久井やまゆり園の事件に寄せて

 

2016-08-06 16.56.32

津久井やまゆり園の事件から今日でちょうど二週間経ちました。

僕は事件の一報を、日本からミラノへ移動している間、トランジット先のパリで知ったのです。

 

それから仕事でドイツ、スペインと旅をしていましたが、どこにいても、何をしていても

この事件のことが、ズシリと重たい宿題のように、頭の片隅にありました。

 

いまだに、あの「凄惨な出来事」がわたしたちに何を語りかけているのか。

今の時点で、自分の中で整理できないでいます。

 

ですが、そのことを、そのままの状態で言語化しておこうと思います。

長文になりますし、言うまでもなく不完全な文章です。

何故なら、私が破れ目のある不完全な存在だからです。

 

「障害者なんて死んだ方がよくないっすか」

 

植松聖容疑者は、殺傷事件を起こす半年前にこの施設で勤務中に、笑みを浮かべながら同僚に話しかけていたといいます。(朝日新聞7月27日の報道)

 

この同僚の方は、この時何と答えられたのでしょうか?

きっと驚愕し、戦慄が走ったことでしょう。

 

もし、自分がこの時に問いかけられた当事者だったとしたら

何と答えることができたのでしょうか?

 

これが、僕に刺さっている「宿題」です。

 

「なんてことを言うんだ君は。すべての命には、地球より重い価値があるのだ。」

これは、おそらく模範解答ですし、僕の100パーセントの真意です。

 

しかし、長らく意思の疎通もできず(と、私たちは思っている。)、自力では食事どころか排泄すらできない人々のお世話をしてきた彼の薄笑いは消えないでしょう。

ですから、何かを達成したかのように見える、植松容疑者の逮捕時の笑顔が、僕の脳裏からいつも消えないのです。

 

考えてみると、この時代を共に生きる私たちは「この時代の嘘」を空気のように吸っているのです。

それを、時に「文化」といい「価値観」とも呼んでいるのです。

 

ですから、心情の深い部分で植松容疑者を支持してしまう人もいるのではないでしょうか。

そのような言説も、事件後ネットなどで目にすることがあります。

 

植松容疑者の非人道的な行為を糾弾することは当然のことですが、私自身が、この時代に偽られることなく、本物の価値を生きているのか、今一度検証してみたいと思います。

 

今私たちは今、大量生産のモノで溢れている世界を生きています。

そうすると、モノは気づかないうちに、私たちの価値観に影響を与えるようになっています。

 

はじめに、モノというのは、どういうふうにして価値が決まるかということを考えてみます。

市場原理から言えば、ご存知のように。モノの値段は需要と供給のバランスで決まります。

 

もちろん、売る人は、作るのにどれだけコストがかかったかということを計算し値付けをしたいのだけれども、「これだけ情熱を注いだのだから、これだけお金を払ってほしい。」と言っても、使う人がそれだけの価値を認めなかったら誰も買ってくれない。

 

それが市場(マーケット)です。

 

このようなモノに満ち溢れた社会の中で私たちは、毎日、毎日、そのようなマーケットの価値観で判断して生きているのです。

 

そして、いつのまにか、私たちの社会は、人間に対してもそのような価値基準で判断するようになってしまっているのではないでしょうか。

 

もはや当然のように、人の存在(Being)を観るのではなく、何をできる人なのか(Doing)で価値を量ってるのです。

 

すると、生まれつき障害を抱えている人や、病気の人や、年をとっていろんな事ができなくなった人が、社会の隅に押しやられてしまう。

 

実際に日本では、このような人々は世間からは隔絶されたところにある施設に押し込められることが多いのです。(私の暮らすイタリアでは、意識的に共存する環境が作られています。)

 

現代社会は、その人が役に立つ間は尊重しますが、役に立たなくなると、ある意味では捨てられてしまう。

このような価値観が蔓延して社会に浸透し、今や私たちはそのような事にすっかり慣らされてしまっている。

 

私たちは知らない間に、そんな「時代の嘘」の影響を受けているのではないでしょうか。

 

自分が何か一生懸命、仕事ができている間は満足しているけれども、この先、自分で自分の事をできなくなると、人から見向きもされなくなるのではないかという潜在的な恐れを抱えています。

 

そうすると、「ああ、自分なんて、この世の中にいなくたっていいのだ。」という気持ちになってしまいます。

すなわち、お互いに人間をもモノと同じように、人にとって役に立つかどうかで評価するわけです。

 

ところで、イエス・キリストは、人間の価値をどう見ていたのでしょうか。

(突如、宗教的な切り口になって申し訳ありません。牧師なのでお許しください。)

 

そのことについて語っている聖書の個所が、ルカの福音書15章8節から10節にあります。

 

15:8 また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。

15:9 見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。

15:10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」 

 

イエスはここで、生涯で一度だけ、人間を「お金」にたとえました。

その意味で、とてもユニークなたとえ話です。

 

それ以前のたとえ話では、イエスは人間のことを羊にたとえています。

そのほかにも、ぶどうの枝にもたとえました。

そのように、イエスが人間を何かにたとえる時には、いつも、命のあるものを取り上げています。

当たり前です。なぜなら、人間は生きている、命があるものだからです。

 

ところが、一回だけ、命のないものにたとえた。

イエスは何故、人間をお金のような、命のないものにたとえたのでしょうか?

それは、イエスがここで特別に、人間の価値について教えようとされたからです。

 

モノは、人間にとってどれだけ役に立つかで価値が決まる。

ところがお金は違うのです。

たとえば、一万円札

これは日本銀行が、これを造り「これが一万円だ。」と言ったら、もうそれが一万円と決まります。

一万円の本当の値段(製造コスト)は約22.2円だそうです。

 

しかし、一万円の値段は、私たちが、これはどれだけ役に立つかで決めるわけではないのです。

発行した人が一万円だと決めたら、世界中で一万円なのです。

 

このように、お金の価値の決まり方は、モノの価値の決まり方と違うのです。

これが、イエスが人間をお金にたとえた理由のひとつです。

(本当はもっと深い意味があるのですが、ここでは述べません。)

 

人間の価値とお金の価値と、どう関係があるかということを、もっと理解していただくために、一つ聖書の個所を読んでいただきたいのです。

 

創世記の1章27節には

「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」

とあります。

 

神さまが人間を創造された時に、「神のかたちに、人間を創造された」と書かれているのです。

この「かたち」ということばは、「肖像」とも訳される言葉です。

お金には、大体どこの国でも、だれかの肖像が刷られています。

そして、その肖像があることによって、お金の価値が決まるわけです。

価値が、その肖像によって込められているということです。

 

丁度それと同じように、私たち人間も、神さまのかたちが、一人一人にプリントされているので、価値がそこで込められている、もう決まっているのです。

人間にとって役に立つかどうかではなくて、創った方(神)が価値を込めているのです。

この場合、「神のかたち」とか「神の肖像」というのは、いったい何のことかと言うと、別に絵がプリントされているわけではありません。

神さまの人格、神さまのきよい性質、神さまの創造的能力、また知恵、そしてなによりも、神の愛が人間の中にみられるというのです。

すべての人間はそれほど、神さまに似せられて、素晴らしいものをいただいています。

 

創造者が、被造物の価値を宣言したのですから、被造物である私たちが互いの価値を論じ合う余地はありません。

 

イザヤの43:4節において、神様はヤコブにこう告白されました。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

あなたを創られた神様が、あなたの価値を決めたのです。

だから、人の役に立つかどうかということではなく、一人一人の人は、誰もが素晴らしい価値をすでに与えられているというのが聖書のメッセージです。

 

あまりにも、話が長くなりました。

話を最初に戻しましょう。

 

今の時点で、僕が植松容疑者の同僚として、彼から

「障害者なんて死んだ方がよくないっすか」と言われたら、こう答えるでしょう。

 

「僕たちに、誰が生きていて良くて、誰が死んで良いなんて決められないよ。僕らは神ではないのだから。」

「彼らが、僕らの理解を超えるハンデを追っていたとしても、僕らの理解を超えた使命をもって、今日も生かされているんだ。」

 

神の与えてくださった使命を生きるということは、他の人にはわからない喜びと充実感を与え、満足を与えます。

他者の評価は、もはや関係ありません。

自力で踏ん張って生きることに降参し、神の御手に帰ると、誰もがそのように生きることができるのです。

投稿者:uttie|Comments (1)

コメント

  1. Fredrich Kiyoko より:

    年を重ねると、誰もが、市場での価値を失う。もう働けない。このごろ、医者にかかると、「もうどうせ年だから、
    完治する必要なし」とみられるのではないか、と思ってしまう。原因不明の関節の痛みなどは、もう痛みと死ぬまで付き合うほかはないのか、と考える。だれでもが、U容疑者のように考えるようになると、人生に希望がない。寝たきりで瞬きのみで、主を讃え、主を伝えた水野さんのことを思い、
    一人でも多くの人に人間の本当の価値を知らせねば、と思う。U容疑者が、水野さんのことを知っていたなら。。。
    福祉施設での職員の人たちが、もっと世から顧みられ、厚遇
    されることも、必要だ。ゆとりのある生活が、彼らにできるように、願ってやまない。尊い仕事だ、と世間が見なおすようになればいい。

コメントしてください

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です