ドクメンタを最初に観に来たのは20年前だ。
その頃は貧乏画学生だったが、バックパックをしょってこの街まで来た。
当時、同じ美大のクラスで学ぶ友で、僕と同じようにドイツのカッセルまでドクメンタを
観に来たのが友人のKEISUKE MATSURAで、後に僕らは同じ欧州で暮らすようになった。
おそらく20年前の体験がなければ二人とも、そうはなっていなかっただろう。
そして10年前も一緒にドクメンタを巡り、そして今回も、共にこの国際展を巡っている。
僕らは、昔から同じ作品を観て、互いにどう感じたかを語り合ってきた。
そして同じ環境で共に制作し、互いの作品を受け止めあってきた。
そして「美術」と呼ばれるものについて、ああでもない、こうでもないと論じ合ってきた。
だから20年経っても同じテーマを語り合いながら、同じ空間を共有していることが嬉しい。
「現代美術」とは一言で言えば「ルールがはっきりしないゲーム」のことだ。
これまでの美術史の文脈(ルール)を解釈したうえで、新しいルールを提示できたものが
勝者となる、なんとも厳しいゲームなのだが、彼は今もそのフィールドで走っている。
だから彼が発する言葉は、いつも僕に刺激を与えてくれる。
ドクメンタを巡って感じたこと、それは10年前にも同じことを感じたのだが、
「もうこのゲームは限界です。」と悲鳴をあげているようにも見える。
そして、次のプレーヤーにバトンが渡されることが求められているのだと思う。
彼ならそのバトンを受け取るだろう。そして、僕も走ろうと思う。与えられたフィールドを。
会場を巡りながら友は言った。「ドクメンタはこれくらいにして森へ行こう。」
僕もそう思っていた。ドイツの森の方が、僕たちにたくさんのことを語りかけてくる。
そういえば、十年前もドクメンタの会場を早々と抜け出して、ドイツの平原にテントを張って
共に過ごした。あの頃みた景色が、再スタート地点になっている。友よ、また会おう。
10年前の今日
←今日もそこにいてくださってありがとう。