山元町役場の物資担当の方からの要請を受け、二度目の物資搬入を行いました。
今回は役場の方が、荷下ろしを手伝って下さりました。
僕も一緒にさせて頂きましたが、2500本の野菜ジュースだけでも
日ごろの運動不足がたたって、腰にくるものです。
先週は荷降ろしのボランティアの方々が待機されていましたが、震災から二カ月たつと
次第にボランティアの引き上げが増えていて、荷降ろしの人員不足や、倉庫不足から
物資を引き受けられない事情もあるそうです。
「救援物資に支えられているけれど、皆が町で買い物
できるようにならなければ商店は復興できない。」
「床屋さんのボランティアに感謝しているが、いつまでも
そうでは、町の床屋は立ち直れない。」
役場の方々と、今後の復興のビジョンを話しあっている時に、そのような話も伺いました。
現場は刻一刻と変化します。これからは、町の人々の自立の在り方に、焦点をあてる
段階に移行しつつあるのかもしれないと考えました。
役場の掲示板には、様々な訪ね人の張り紙がありますが、僕は捜されている動物達にも
いつも目が行ってしまいます。
飼い主と共に暮らしていた頃の、動物たちの眼差しは、平安そのものです。
はやく、愛する家族が一緒に暮らせることを願って、掲示板の前で祈りを捧げます。
この日、山元町で災害支援活動を続けてきた陸上自衛隊第10師団(名古屋市)が
一部を残して帰隊することになり、お別れのセレモニーが開かれました。
第10師団は大震災翌日から被災地入りして、災害救援活動を展開してきました。
自衛隊さんが、水をひいてくれた。家族を捜してくれた。お風呂を作ってくれた。
町の人々から、感謝の声が尽きることはありませんでした。
最大3800人が移動日を含めて75日間派遣され、延べ動員数は約22万人、
給食は約34万2千食、給水は約3900トン、浴場利用者は約9万9千人に達したとのこと。
ちぎれるほど手を振って、隊員たちを見送る町の人々
これからは、もう今までのようには頼れない。そういう寂しさと覚悟もみえました。
町のFMラジオでは、今日もみつかったご遺体の名前が報告されていました。
二か月以上、遺体捜索に従事された隊員の心の事にも思いを馳せました。
役場の前で、今日も中学校の校長先生に出会い、校長室にお招きを受けました。
これから、イタリアから共にできることを、建設的にお話をすることが出来感謝でした。
フランス帰りの新任教員Fさんとも、夕食を共にし、祈り会う事が出来ました。
夜に仙台市内の宿にチェックインすると、さっきまで目にしていた被災地の光景と、
一件日常に見える地方都市の夜景とのギャップに戸惑いを覚えましたが、
同時に現地を訪れたことで与えられた、復興への希望に目を留めて、眠りにつきました。
←今日もそこにいてくださってありがとう。