今日も空が美しい日だった。
通勤に使う、代車のトヨタ・カムリは依然しっくりこない。
静かに走るし、申し分なく通勤の足としての役目を果たしているのだから、
別にそれ以上の事を求める必要はないのだけれど、
車を相棒のように考えるのならば、
トヨタ・カムリは無口で冗談を言わない執事のようでもある。
車に限らないが、愛用の道具を擬人化して捉えてしまうのは昔からの癖だ。
むかし「愛着をもって使うと、車は調子が良くなる気がする」と言ったら、
「そういうの、精霊信仰って言うのよ」と姉に言われたことがある。
はじめて買った車のことを思い出した。
3万円で買った、56年式のスズキ・アルト。
ライトが丸くて、赤いボディ。
洗車して拭きあげると、いつもウェスが赤くなった。
ボディの横に「自家用」と白い塗料で書いてあった。
エアコンなんて無かったので、
梅雨の蒸し暑いときに山手通りで渋滞にはまったときは、
ハンドル握ったまま失神しそうになった。
冬場は、チョークを引っ張りながらエンジンをかけるのに苦労した。
一発でかかったときは、良い日になる予感がした。
2サイクルエンジンで、オイルを燃焼させながら走るので
排気がこれまた臭かった。
いまでもその臭いを思い出せる。
相棒としてとても気に入っていた。
密かに、名前もつけてやっていた。
結局その相棒は、深夜の中央道を走行中オーバーヒートして、
ラジエータ液を噴水のように噴き出し、
白煙をあげながらエンジンが燃えて、
ドリフ的なエンディングで息を引き取った。
駆けつけたJAFのお兄さんがボンネットをあけるなり
いかりや長助ばりに「だめだこりゃ」と言った。
車の最後を看取ったのはその時だけである。
幼い頃、保育園で教わった「大きなのっぽの古時計」の唄は
当時の僕には衝撃だった。
「おじいさんが生まれたときにやってきた時計」が
「おじいさんの最後とともに時を刻むのを止める」
なんだかその歌詞にとても惹かれてしまったのだ。
その体験が、モノをモノとしてだけみれなくなった僕のルーツなのかもしれない。
たとえば車でも、一生同じ相棒と付き合って行けたらいいのに。