1年という短いサイクルで、2つの島で2年に渡り暮らしたことがある。
小笠原諸島の父島と、伊豆七島の神津島。
94年から’96年にかけてのことだ。
都立高校の美術科講師をしていた。
最初の勤務校、小笠原高校には産休代替要員として年度途中に赴任した。
亜熱帯のその島では、焼けるようにな美しい夕焼けを観ることが出来る。
ウェザーステーションと呼ばれる気象観測塔がある岬に、
生徒たちとその日の夕空を観に行くのが日課になった。
放課後の美術室を自分のアトリエにして制作をしていると、
生徒たちもよく絵を描きに来た。
油絵の技法を教えると、殆どの生徒がキャンバスに、美しい夕焼け空を描いた。
産休の先生が復帰されるのと同時に、僕はその島を離れることになった。
やっと、生徒にも島での暮らしにも慣れた頃だったので、寂しかった。
桟橋まで見送りに来てくれた生徒たちの前で、言葉がつまった。
次の赴任校である神津高校がある島は、静かな漁師町だった。
少し気性は荒いけど、うち解けると素直な生徒が多い。
職員室の中で、唯一の講師である僕は、
職員会議の日には一足お先に退勤して、よく生徒と釣りに行った。
島の高校の中にはヒエラルキーがあって、
サーフィンと釣りが巧い奴から順に偉かった。
僕は下っ端だった。
「先生は、本当の先生じゃないんだろ?」
生徒は、講師という僕の不思議なポジションを彼らなりに理解し、
だからこそ身近に感じていたようだ。
「来年もこの島にいてくれるんか?」その問いには、答えられなかった。
1年契約だっだし、来年も講師の口があるのかさえ解らなかったのだ。
その年度の終わりに、正式に教諭として現任校に採用されることが決まった。
「本当の先生になるんか。」と生徒たちは、喜んでくれた。
再び島を離れるのは寂しかったけれど、
これからはひとつのところに腰を落ち着けて、
教師という仕事に専念出来るのだと思うと、嬉しかった。
採用試験に合格し、名簿に登載されてはいたが、教諭として採用されるのは若干名。
声がかかったのは単にラッキーだったのだと思う。
採用試験合格後の採用と不採用の間には、大きな理由の違いはない。
あるとすれば、昨今の不況による都の財政難と、少子化を理由とした新規採用枠の圧縮だ。
それは、とても残念なことだと思う。
今でも教師としての仕事を望み、
その資質を持ちながらも、機会に恵まれない方が多くいるはずだ。
一緒に働いている職場の仲間が、
リストラなどで働く機会を奪われたらもちろん許せないけれど、
さらに想像力を働かして、
彼らのための間口を広げる手助けが少しでも出来ればいいのにと思う。
彼らは、見えない仲間なのだから。