コツコツと、父の書斎の片づけをしています。
彼が著名な小説家だったりしたら、このまま保存されて
文学資料館にでもなるのだろうが、我が家ではそうもいかない。
父が生前買い集めた膨大な本を、何回にも分けて古本屋(ブックオフ)などに
もっていくわけなのだけれど、そのつど本の査定をするバイトのお兄さんに
「全部で、40円になりますねー、あとこちらの本は、お値段つきません。」とか
言われるのが何とも切ない。どついたろか。
結局さ、父さんよ。自分のために何かを必死に買い集めたって、死んだらそれらはゴミになる。
人のために時間やお金を使って愛したときだけ、それは愛し、愛された記憶として残るんだよ。
本屋さんから電話がかかってきて、「内村邦男様ご注文のイタリア語講座が届いています。」
とか言われたりする。その人はもう亡くなりました。と説明する。そんなにイタリア語を学んで
どうするつもりだったのか。もっと早く、もう一度イタリアに呼んであげれば良かったのか。
いや、そういう後悔は愚かな感傷なので、もうやめよう。
父の遺品の中に買ってきたまま開封すらしていない真新しい500GBのハードディスクがあった。
何を保存するつもりだったのかな。
父というハードディスクにメモリーされた記憶はもう、誰も取り出すことはできない。
←今日もそこにいてくださってありがとう。
私も父を10年前に亡くしました。
わたしの父は編集者をしていて
持っている本の数が半端なかったので
すごくお気持ちがわかります。
最終的に我が家の場合、仏壇が無いので
父の仕事机をそのままに、仏壇代わりのように
なっています。
突然のコメント失礼しました。
あぁ、ウッチー・・・悲しすぎます。
今会えたらハグしたい気持ちになりました。
一緒に過ごした思い出は永遠です。
>遊子
遊子さんご無沙汰しています。
(メールでしかお会いできていませんが)
遊子さんの10年前の日記覚えています。
その頃の詩や日記に感銘を受けて、メールを
差し上げたこともありました。
コメント感謝です。
>サトエ
ずいぶんお会いしていませんが、元気ですか?
記憶という形でも、人は生き続けるものですね。