なぜ、毎日他愛もない言葉をつづるのかといえばおそらく、昔読んだ本で
「書かれたものだけが残るのだ。書かれなかった日は、なかった日と同じだ。」
というような言葉をどこかで読んだことがきっかけではなかったか。
今では、何に書かれた誰の言葉かも思い出せないのだけれど
今でもその言葉を時々思い起こすのだ。
たとえば聖書は、約60人の人々による2000年~3500前の
古文書がまとめられた本な訳だけれど、これらの著者が「書く」ことを
しなかったら、世界の歴史はこうなっていなかったのは明らかだ。
パウロが、弟子のテモテに手紙を書かずに、スカイプで済ましていたら
僕は今日も彼の言葉に触れることはなかったはずだ。あ、2000年前には
なかったんですか。スカイプ。
あと、確か三浦綾子さんのエッセイで「日記を一年続ける人は何かを成し遂げる人」
「日記を三年続けた人は、すでに何かをなした人である。」という言葉にも影響を
受けたのではなかったのか。3年以上続けても、何もなしていない気もするが・・・
10年前の今日
今日、ハンナは公園で今日新しく咲いた花を見つけていた。
犬の散歩は毎日同じ公園、同じルートなのだけれど
ハンナにとっても同じ日というのは一日もなく、日々起こっている
新しいことに気づく感性が備わっているのでしょうね。
←今日も見に来てくださって感謝
「これらの著者が「書く」ことをしなかったら、・・・」
本当に、そうだ、と実感ています。昨年2月に、8ケ月間で
止めてしまったブログを見て下さり、教会を訪ねてくれる方が
最近続いています。「書いたもの」は、「蒔いた種」だな、
と感じています。
書かれなかった日は、なかった日と同じ
なにか分かるぶぶんがあります。
>ニーハオ
たしかに、書くことは、播くことでもありますね。
ブログ復活したら教えてくださいね。
>gam
書いたものが箇条書きであっても
蘇るんですよね。そのころの空気が
だから、書くっていうのは意味あるかも