我が家の裏は今まで巨大な空き地だったのだけれど
ヨーロッパ図書館が建設されることになり、日々工事のために
ダンプがひっきりなしに出入りするようになった。
今朝はやく出かけるとき、この工事現場に入ろうとしたダンプと
スクーターで通勤途中のサラリーマンが接触事故を起こしていた。
こんな光景はミラノでは日常で、交通事故は絶えない。
昼間に家に戻る際、朝の事故現場を通ったら
現場が保存され、朝倒れていた人はナイロンの
ボディバッグ(遺体入れ)の中だった。
朝はバイクにまたがっていたあのサラリーマンは
亡くなってしまったのだ。
宣教師という仕事をしていても、人の死に慣れることはない。
私たちは有限な体に魂を宿していて、いつ魂が肉体を離れるときが
来るのか、それは誰にもわからないものなのだとあらためて思ったのでした。
←いつもクリックしてくれるあなたに感謝!
PICASONIC Blog も更新しましたよ。
死=長いお別れ。
ただすれ違っただけの人でも、
もしも振り返った時に不幸な事に巻き込まれて絶命していたら、
またすれ違う事が出来ないんだという事。
すべてが永遠ではないという儚さ。
長いお別れに慣れるなんて事は一生ないでしょう。
その人との何かの縁があってその人とその場所にいたんですから。
>misachica
コメントありがとう。
ただすれ違うだけでも
人との出会いに偶然は無いような気がしています。永遠でないものについて、その儚さについて、時々考えます。