日常における「ある死」

我が家の裏は今まで巨大な空き地だったのだけれど
ヨーロッパ図書館が建設されることになり、日々工事のために
ダンプがひっきりなしに出入りするようになった。
今朝はやく出かけるとき、この工事現場に入ろうとしたダンプと
スクーターで通勤途中のサラリーマンが接触事故を起こしていた。
こんな光景はミラノでは日常で、交通事故は絶えない。
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昼間に家に戻る際、朝の事故現場を通ったら
現場が保存され、朝倒れていた人はナイロンの
ボディバッグ(遺体入れ)の中だった。
朝はバイクにまたがっていたあのサラリーマンは
亡くなってしまったのだ。
宣教師という仕事をしていても、人の死に慣れることはない。
私たちは有限な体に魂を宿していて、いつ魂が肉体を離れるときが
来るのか、それは誰にもわからないものなのだとあらためて思ったのでした。
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投稿者:uchimura_it|Comments (0)

コメント

  1. misachica より:

    死=長いお別れ。
    ただすれ違っただけの人でも、
    もしも振り返った時に不幸な事に巻き込まれて絶命していたら、
    またすれ違う事が出来ないんだという事。
    すべてが永遠ではないという儚さ。
    長いお別れに慣れるなんて事は一生ないでしょう。
    その人との何かの縁があってその人とその場所にいたんですから。

  2. uttie より:

    >misachica
    コメントありがとう。
    ただすれ違うだけでも
    人との出会いに偶然は無いような気がしています。永遠でないものについて、その儚さについて、時々考えます。

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