土曜の朝、バルセロナ日本語キリスト教会のメッセージのため、礼拝堂につくと
まだ鍵が閉まっていた。
いつもは、早めについて、会堂で祈るのだが、他の人々も入れずにいて、
しっかりと施錠されてしまった教会の姿に首をかしげていた。
時間が来て、いつもの礼拝堂に入ると、祭壇の蜀台(蝋燭立て)が無くなっていた。
聞けば、盗まれてしまったという事だった。教会の聖具は、どれも骨董的な価値がある。
盗難が相次いでいるので、礼拝時間以外は教会も施錠する必要が生じているのだそうで、
いつもオープンな教会ではいられないというのは、とても残念なことに思えた。
昨年の七月は、礼拝中に入ってきた東欧系の青年二人組(敬虔に十字を切って入ってきた。)
が、礼拝を捧げている女性の鞄から財布を奪って逃げていったことがあった。
それ以来、メッセージ中にも、会堂に入って来る人に注意を払われなければいけなかった。
今日の礼拝も、礼拝とは何かという事を深く思う恵みの時間になった。
同時に、この出来事、貧困と心の荒廃の中に立つ教会の意味について
思いを巡らせることにもなった。
10年前の今日
←今日もそこにいてくださってありがとう。
がーん・・・
そんな罰当たりなことが起きてしまうの?
ああでも日本でも、
「賽銭泥棒」って昔からいるらしいですね。
「天は見てるぞ」という感覚は、
国や宗教と関係なく、誰にもあるものと思っていたけど・・・
そんな考え方が甘いのかな?
なんだか悲しいですね・・・
>hattan
うん、日本的にいえば「罰あたり」な感じですよね。
どうじに、欧州の貧富の格差は激しく、移民問題も
抱えていて「盗まなければ生きていけない。」という
人たちもいるのかもしれません。
考えさせられる出来事でした。