父の告別式から一か月が経った。
「ブログを見ると、だいぶお元気になられたようですね。」
という言葉を頂くことがある。
僕はいつも元気だ。
父が亡くなった日も、
葬儀の時も、笑顔で人と話してしまう。
ジョークだって、まじえる。
それが職業病なのか、昔からの性分なのか
悲しみに関しては、表現の仕方がよく解らない。
でも、父のことを思ったり、写真を見たりすると、すべての動作がとまってしまう。
深海にいるみたいに、一瞬視界がぼやけるし、身の回りから音も消えてしまう。
うまく名づけられない感情に押しつぶされて、呼吸がうまくできなくなる。
こういう体の反応のことを「さみしい」というのだろうか。
父が亡くなったのが4月2日、そのちょうど一ヶ月後の5月2日に忌野清志郎さんが旅立った。
この喪失感を何と表現すればよいのか。僕は、やはり「さみしく」なった。
父が展覧会を開いた時のスナップ写真
とても良い顔をした四人の男性
中央にある馬の絵は、葬儀の際、会場に飾った。
左から忌野清志郎さん、小林晴雄さん、父、三浦友和さん
でも、僕の大好きな二人が、もう先に旅に出てしまった。
小林晴雄さんは都立高校の美術教師として日野高校時代に清志郎さんを教えた。
RCサクセションの初期の名曲「ぼくの好きな先生」のモデルになった先生だ。
その頃、父は小金井の中学校で美術教師をしていて、「ぼくの好きな先生」がヒットしたとき
教え子たちは、絶対に僕の父のことがモデルになったのだと思ったそうだ。
ある教え子は、喜んでその歌詞を木彫りにしたものを、送ってくれたので
父はそれを、しばらくは美術準備室にかざっていたこともあったそうだ。
たばこを吸いながらいつでもつまらなそうに
たばこを吸いながらいつでも部屋に一人
ぼくの好きな先生
ぼくの好きなおじさん
たばこと絵の具のにおいのあの部屋にいつも一人
たばこを吸いながらキャンバスに向かってた
父の葬儀の際、父の教え子だった方が
「いつも西日が射す美術準備室で絵を描いていて、煙草と珈琲と絵の具の
においをさせて、良く話を聞いてくれる先生らしくない先生でした。」
と語ってくれた。
そして、似た者同士の美術教師は、実は同じ市内で暮らす無二の親友で、
美術教師を退職した後も、二人展を一緒に開くような絵描き仲間だった。
父は最近、小林晴雄さんの体調が芳しくないのをとても心配していた。
でも父の方が、あっさりと逝ってしまった。
葬儀の時、小林晴雄さんが僕の手を握って「僕より早く逝ってしまうなんてね。ひどいよね」
と言って、泣き崩れてくださったことを思い出す。
その一ヶ月後に、清志郎さんの葬儀に参列されて、どんな「さみしさ」を抱いておられるだろう。
もっと「ぼくの好きな先生」から、父の思い出と忌野清志郎さんの思い出を聞きたいと思う。
「栗原君(清志郎さんの本名)は、いつもコンサートの一番前の席のチケット送ってくれるんだけど
ああいう場所はちょっと億劫でね、チケットを無駄にしちゃうんだ。」と小林先生はよく言っていた。
僕はその「一番前の席のチケット」を、喉から手が出るほど、譲ってほしかったので
「先生が行かないなら、僕にください。」と言ったことがある。
小林先生は、穏やかに
「そういう訳にはいかないよ。僕のための席だよ。空席という存在感もあるだろう。」
と言われたことを思い出した。
小林先生、ほんとうに「空席」という存在感は、とても大きなものですね。
父のための席と、清志郎さんのいなくなった席をみて、その意味がわかりました。
父と清志郎さんが、天国の新しい席で今頃一緒に再会していたら嬉しいですね。
「いやー、みんなより先に来てしまったね。」とか言っていたらいいですよね。
←今日もそこにいてくださってありがとう。
寂しいのは、寂しい。その他に言い換えられる言葉はない。と思います。
悲しいのも悲しいの他に言い表せる言葉がないですね。
本当は言葉にならない痛みなんですけど、、。
きっととても大事な感情なんですね。持っていなければならない感情なんでしょうね。そして、きっと表に出さなければならない感情なんでしょうね。
天国で会えると思っていても家族を見送る事を思うと胸が張り裂けそうな思いになります。その日をどうやって迎えようと小さいときからずっと思ってきました。ひとり一人の存在は胸が痛むほどやっぱりすっごい大きいんです。
父親が亡くなったということは
それは経験してみないとわからない
感情かもしれません。
私はそこから抜け出せないで
青春時代のほとんどをすごしました。
見たくれは、まじめな優等生でしたけど。
それがきっかけでクリスチャンになりました。
自分のブログに忌野清志郎さんは
「ぜんぜん知り合いでもなんでもないけど」って
前置きして書いたんですけど、
ここでは、めちゃめちゃ知り合いな人物のようで
びっくりしました。
それにしても、音楽も絵画もその方が亡くなっても
何かを世に残していけるっていいですね。
私は何かを残せるのだろうか。
残せなくてもいいんだけど(笑)。
「ぼくの好きな先生」を最近聞き直しているのですが、
僕の知っている限りの牧師さんを想うとき、
内村先生がまったく牧師先生らしくなくて、
いい兄貴分なんだろうなぁ、
と人間らしさを感じています。
そのまんまでいて欲しいです。
>ALL
みなさんコメントありがとう。
ひとりごとのようで、こんな話題を分かち合いたいと
自分は願っているのだなと思います。
僕はこの写真の父の顔、そして高校生のような
キヨシローさんの顔、とても好きです。
そっと、お見せしたくなってしまいました。
「僕の好きな先生」聴いています。
「僕の好きなおじさん」という言葉が胸に響きます。
会社を離れて役職を無くしても、閉ざされた村社会を
離れて村の肩書が無くなっても、その人はその人。
僕の愛する人々です。
>ニーハオ
父の葬儀にも来てくださり心から感謝です。
ニーハオさんのそばに、 「僕の好きな先生」も
いらっしゃいました。
わたしたちは、いつも主にあって自由でありたいですね。
見ず知らずの者がコメントを書いて良いものなのか悩みましたが・・・・書かせてください。
読ませていただいて思わず涙してしまいました。
私は忌野清志郎さんの大ファンなのですが、
4月2日にお父様が亡くなられて・・・
奇しくも清志郎さんのお誕生日と同じ日なんですね!
深い縁、というか、繋がりを感じずにはいられません。
小林先生の他にもう1人僕の好きな先生が居て、
実はそのお2人は無二の親友だなんて!
なんて素敵なお話なんでしょうか。
まさに事実は小説より奇なり、ですね。
貴重なお話、お写真も、有難うございました。
なんとなく引力を感じます。オーストラリアに住んで23年になりますが、実家にこの前久しぶりに帰りました。今度改築するから片付けてという部屋に、亡き父が描いた海の油絵の隣に、高校時代に自分が描いた海の油絵が並んでいまして、私も絵をもうちょっと続けてみようという気持ちを新たにしてこっちに戻ってきました。。。そしてこのサイトに今夜出会ったのです。二十歳のときアメリカで洗礼を受け、いろいろあって今に至りますがダウン症の息子とふたり、教会ファミリーに支えられ、なんとか一軒家を立て、生きてきました。人生に与えられた時間はほんとうに限られたものですね。有意義に使いたいと思います。馬の絵は、明るい色使いで、ほのぼのとした気持ちにさせられます。そこに三浦友和さんがいたことも、なんとなく因縁っぽいかんじがします。おくさまとは同年齢なので。日本もがんばってますね。カンペイさんもイランで走って映画に主演するし、がんばらんばいかん!という気持ちにさせてもらいました。ありがとう。
人生はどれだけ長く生きたかではないですね。
いい人生を送られましたね、おとうさんは。
オーストラリアのケアンズの常夏の空の下で
わたしもがんばります。
どうもありがとう。
ご無沙汰しております。
コメント読みました。ちょうど、朝テレビで清志郎の追悼ライブの事を見ていました。
・・そうだったのですね。
そういえば、お父様も亡くなられたのも存じ上げず、本当に残念で、お寂しいことでしょう。以前、山梨にこられたときは、たしかご一緒だったでしょうか??
清志郎も、写真の三浦友一も山梨にはゆかりの深い方ですね。