今日は語学学校で、ロシア人のおばさんのお誕生日パーティがあった。
こういった企画は、労働者のための語学学校ではよくあることだ。
まだイタリアという国にコミットしていない外国人たちに
パーティーという”状況”を通して、学習してもらう意図がある。
実際に、普段の授業では出来ない「フランクな会話」
そして「議論」に近いものにも発展していくのがパーティだ。
皆がシャンパンに酔った頃に、「前から質問したかったのだけれど」
と前置きをして、ペルー人のおばさんが、唯一日本人である僕に聞いた。
「あなたは何故、自分の国を出る必要があったの?」
皆が僕に注目する。彼女の「問い」は、「皆の疑問」を代表していたのだ。
おばさんが続けてこう言う。
「私たちが自分の国を出て、イタリアへ働きに来た理由はたった一つよ。
“Economico”(経済の事情)、これだけよ。それ以外に、
家族や愛する人と離れて暮らす理由なんてあるのかしら?」
ナイジェリア人も、中国人も、フィリピン人も、コスタリカ人も
僕の答えを興味深く待った。
僕は答えられなかった。「ごめん、難しい、うまく説明出来ないな。」
クラスを出るさいに、先生が僕を気遣うように
「すこし、語学的にむずかしい議論だったわよね。」
と言われた。
帰り道、なんだかとてもへこんだ気持ちになった。
語学力の乏しさに?もちろんそれはある。それは大きい。
イタリア語が自在に使えるならば、たくさんのことを言える。
「僕たち(日本人)は、たくさんの経験やキャリアを積みたいんだよ。」
「日本だけにチャンスがあるわけではないんだ。」
「物質的な豊かさだけを求めているわけではないよ。」
だけれど、僕はたとえ「日本語で答えてもいいよ。」と言われても
彼女が”本当に”疑問に思ったことに,、正面から答えられるのか解らなかった。
彼女は確かに、僕に、こう訊ねたのだ。
「家族や愛する人と離れて暮らす理由なんてあるのかしら?」
←いつも押してくれることに感謝
読んでくれているのを感じます。
20?30代の始めまであちこちを飛び回りましたが、その全ての土地で「ここで暮らしてもいい」と思いました。
それがアフリカやカリブの辺境の地であっても。
ところが最近になって「移住するとしたらどこがいい?」と聞かれて「移住する」という場所がまったく思い付かない事に気付きました。
例え5年10年の長きに渡る「滞在」はあり得ても、永続的に「移住する」という発想がまったく無くなっている。
能力を自分の国以上に発揮できるというようなケースがあるとしても、「帰る」ことが前提にない旅が考えられない。
年齢(自分の想定外だった年齢に達してしまった)がそうさせるのかと自問自答もしますが、
「帰る」べきことを見つけに、あるいは「帰る」ところを確認するために自分の国を出るということがあるのではないでしょうか。
・・・いずれにしても説明にならないか(笑)
これはなかなかタフな質問でしたね。僕も現在はオランダ在住なので、身につまされるお話でしたよ。で、その答えは、ちょっときれい事かもしれないのですが、キーワードだとコミニケーション、知的好奇心、体験主義、その場で実際に感じる事への関心とでもいいましょうか。まだうまく説明できませんが、大きなテーマとして、いつも根底に横たわっています。今後も向き合っていかねばならないテーマですね。自分の中では経済的理由と同様の重みを伴っていると言えるのです。
>bang-chan&kintaro
コメントありがとう。
まず、物質的にある程度
満たされたものだけが感じる「乾き」
そして、教養が生む「好奇心」
自国の政治的安定が生む「外向的保証」
などが彼らと共有が難しい僕らの背景ですよね。
でも、南米の人などがもっている
シンプルな価値観、それが的を得ていて
僕らが見失いかけているものだとも感じます。