パリ最終夜、とても長い時間、闇を見つめ続けて、夜の果てに行き着いてしまった。
誰かの光と影を聴かせて欲しければ、初めに自分の中の闇を告白しなければならない。
そんなトンネルを経て、宵闇の向こうの光を、愛する人たちと一緒に体験する時間になった。
コイノニアというのは、本当は、時に痛くて、とても格好悪いものだ。
そしてつくづく、僕はアホなのだと思った。たくさんの涙と、鼻水が流れる。
誰かの必要のために、自分が存在しているという考えはとても傲慢だ。
人を愛するという事は、とても自分が弱くなり、傷つきやすい人間になってしまう事で
ただ、ただ、そこにいる人たちを、心から必要としている事を認めることだ。
そして、いつも赦されて生きている。
すっかり夜の闇が去ってしまうと、あまりにも新しい朝の空気と
美味しいクロワッサンと、ともに食卓を囲む家族がいた。
メトロと電車を乗り継いで空港に向かう。
毎日、死と再生を繰り返して、少しだけ新しくなってミラノへと空の路で向かった。
10年前の今日
←今日もそこにいてくださってありがとう。
宵闇の向こうの光を愛する人たちと一緒に体験できるとは、
なんという喜びでしょうか。
上手く言葉で言い表せませんが、怖いのだけど、
実は傷つきたくないのだけれど、疲労困憊したくないのだけれど、
人としっかりつながりたいと人は誰でも渇望してますよね。
コイノニア、、切なくて愛おしいくて、でもちょっぴりためらう。
私にはそんな響きをもつ言葉です。
パリ滞在は深い深い時だったのですね。感謝ですね。
>Y.I
互いに傷つかない距離をとっているとコイノニアは無いんですよね。人々とフルコンタクトで接することは、時々しんどく感じるのですが、そうしなければ得られないものがありますよね。日々、陶器師に練られております。
ヘブル6:10は Nuova Diodati訳で DIO,infatti,NON e’ ingiusto da DIMENTICARE l’opera vostra e la FATICA D’AMORE che avete mostrato per il suo nome,con i servizi che avete reso e rendete tuttora AI SANTI. とありました。こんな足りない者でも用いようと望んで下さる主とその御言葉への「信仰」と、自我に対する「忍耐」をもって日々乗り越えられて、主が先生に託された大きな「約束」をつかんで下さるよう陰ながらお祈りさせて頂いてます。
>yuno
yunoさん、お祈りに感謝します。
共にイタリアに召されたものとして、祈りあっていきましょう!