朝教会へ祈りへ行った後、ハンナを連れて近所のスケートパークへ
ここでハンナにスケートボードを与えたら結構上手にグラインドを披露してくれるのではないか?
昨年ミラノから日本へ帰国し、神学校に入学したASUKAさんが約一年ぶりにルフトハンザを
乗り継いでミラノに戻ってきた。迎える私達にとっては里帰りしてくれた気持になる。
一週間の滞在だけれど、充実した時となることを願って、ご近所さんたちで彼女の歓迎夕食会
そして今日はSachieさんのお誕生日でもありました。手作りチョコケーキでお祝いしました。
オーブンから香ばしい匂いがしてきた時、ハンナは美味しいものが
自分のためだと期待したみたいだけど結局は、おあずけのままでした。
10年前の今日
←今日もそこにいてくださってありがとう。
10月と紅葉
10月になったミラノ、この季節特有の鉛色の雲に覆われたけれど、降りそうで降らなかった一日
朝型少し冷え込んだなと感じたら、一日で葉っぱの色が赤い色に変わっていた。
少しづつ日も短くなってきたり、欧州の冬特有の重さを覚悟し始める季節だけれど
生活を規則正しくして、季節性の鬱に抑え込まれないようにしようと思いました。
10年前の今日
←今日もそこにいてくださってありがとう。
何処を見つめて、何に向かって走っているのか
九月も今日で終わる。2010年の四分の三は終わってしまったという事だ。
丸いピザに例えて想像してみると良い。今年はもう、四分の一切れしか残っていない。
進めている仕事で、時として難しい局面を迎えることがある。
もっぱら人間関係の事だ。僕の仕事の八割は人間関係だからね。
もっぱら、自分の未熟さに端を発する事でもあるのだが、人の目や評価を気にしていたら
遂行出来ないこともある。
今日は木曜の礼拝で新約聖書の第二コリント6章を開いたが、伝道者パウロの生き方からは
教えられ、原点を確認した。
人からは「ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりして」(第Ⅱコリント6:8)
生きている訳だけれど、その評価に一喜一憂していたら人生において平安はないだろう。
何処を見つめて、何に向かって走っているのから問われているのだなと、改めて心に刻んだ。
10年前の今日
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T夫妻とのランチ
友人であり、教会の執事であるTさんが午前に電話を下さり
「突然ですけど、久しぶりに休みが取れたので、一緒にランチでもどうですか?」
と招いてくれた。
本当に突然なのだけれど、それはとても有難いことだ。
彼とは長い付き合いだが、人は単に付き合いが長かったり、定期的に顔を合わせるだけでは
関係やお互いへの理解は深まったりしない。
イタリアは今、ポルチーニと呼ばれるキノコが美味しい季節、そのポルチーニを使った
ペンネなどをつつき、食後はカフェに場所を移して、リラックスした対話の時をもちました。
節目節目で、こういう時間を創ってくれて、同じ方向を見て進んでいるかを確認してくれたり
異なる視点や感覚を、さらけ出しあっていくことで、関係を育ててくれるT夫妻、どうも有り難う。
10年前の今日
←今日もそこにいてくださってありがとう。
秋の陽光
気温もストンと落ちて、葉っぱの色も、木漏れ日の光も秋らしくなりました。
木を見上げると、まだ若いドングリの実が育っています。
これからは日も短くなり、曇天の日も増えるけれど、太陽が出ている時はたっぷりと陽射しを
浴びて、あくびなどをしたいものです。
10年前の今日
←今日もそこにいてくださってありがとう。
オフ日
日曜日をピークに走り続けるので、月曜日はテンション低めでのんびりと過ごしています。
本当は頭の中では気になっている仕事があるのですが、休みは休みにしておかないとね。
夕方、ジムへワークアウトに行きました。実は七月に登録していたのだけれど、今日が初日
インストラクターの指示に従ってランニングマシーンなどの有酸素運動で汗をかきました。
こうやって、ちょっとだけ肉体に負荷をかけながら頭を空にするのって気持ち良い。続けよう。
10年前の今日
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ほんとうの価値に生きる
日曜日、ミラノ賛美教会の礼拝では、名古屋にある緑キリスト教会の河野勇一牧師を
お招きしてメッセージを取り次いで頂いた。
「ほんとうの価値に生きる」と題して、新約聖書ルカの福音書15章8節-10節を紐解いて頂いた。
また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」ルカの福音書15章8節-10節
イエス・キリストは、人間の価値をどう見ておられるのか。
そのことについて語っている個所が、このルカの福音書15章だと語り始められた。
お金は、持ち主の手の中にあり、使われるときに初めて価値が発揮される。
しかし、持ち主の手を離れてしまったら、それは何の価値ももたないモノになってしまう。
そして、お金の方からは決して持ち主を探すことは出来ない。
銀貨を探す女にたとえられた神、そして落ちてしまった銀貨にたとえられた失われた人々
今日の礼拝には、多くの「教会は初めて」という人々が来ていたが
そのような人々にも解りやすく、心の深いところに届くメッセージだったと思う。
もちろん僕にとっても
礼拝後、河野牧師ファミリーを取り囲んで、皆で今日の聖書の言葉に対する
応答と分かち合いの時をもち、その時間もとても豊かなものになりました。
このような出会いが与えられ、今日も感謝の気持ちに溢れた日曜日でした。
10年前の今日
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バルセロナとジローナ
バルセロナ日本語キリスト教会で礼拝メッセージと司式を取り次ぎました。
スペインの眩い光は、いつも直線的で、光と影の強いコントラストが生まれます。
空を見上げても同じ、もしキャンバスに描きたいのなら、白い絵の具も黒いの具もたくさん使う。
バルセロナでのミッションを終えて、ミラノへ飛び立つまで時間があるので、中世の面影を
残す古都、ジローナ(Girona)まで足を伸ばしました。
オニャル川の住宅群と大聖堂が美しく調和していて、とても心惹かれました。
ゆったりとした空気が流れているので、広場沿いのカフェ(BAR)でのんびりしようと思います。
10年前の今日
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バルセロナは燃えているか
ここのところ、生活が夜型になっていたのだけれど、朝五時台に起きて空港へ向かったので
ミラノ・ベルガモ空港から離陸するなり再び眠りに落ちた。目覚めると眩い地中海と海岸線
予報では今日のバルセロナは雨となっていたけれど、くっきりとしたコントラストの機影
どうやら良い方向に、天気予報は外れたようです。
Iさんの盆栽・生け花教室で礼拝を捧げた後、いつものように中庭の光景を眺める。
外向けに化粧を施した外観ではない、生活感の漂うバルセロナの景色に何故か惹かれる。
葡萄の盆栽が、小さな実をつけていました。自然界の色彩って美しすぎて、かなわない。
今日はメルセと呼ばれるバルセロナの祭日、出店を冷やかしながらヨットハーバー沿いを歩く。
海岸沿いにある老舗の海鮮レストラン、たくさんの人で賑わっていました。
バルセロナでは休日人々は午後二時くらいから五時くらいまで、ゆったりランチを楽しみます。
素朴ながらも、海鮮の豊かな旨みが沁み渡っていて、悶絶するほど美味いパエリアさん
海岸では、海水浴する人、日光浴する人で溢れかえり、誰もが夏を惜しんでいるようでした。
海辺の砂で、誰かが創った「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿、巧すぎ、可愛すぎ。
それにしても、何故ここに!?
夕刻、ホテルにチェックインし、部屋でこの街の祝福を願って祈って目を上げると
今まで見た事がないほどの、燃えるような夕焼け空が山の上に、一瞬の間、顕れました。
実は色んな戦いがある日々だけれど、勇気を失わずに、なすべき事を進めればよいのだと
神様が空のキャンバスに描いてくれた色彩を観て、確信を新たにする一日の終わりでした。
10年前の今日
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見えないものにこそ目を留める。
木曜礼拝、パウロの書簡であるコリント人への手紙第Ⅱ4:8-18より
メッセージを取り次ぎました。要約、抜粋したものを今日はブログに残しておきます。
「私は途方にくれることがある。」と正直にパウロは語っている。
昨年父が1週間以上意識不明状態の時、私も途方にくれた。
それは、何も出来ないから。
途方にくれるとは、自分にできることがない、ということ。
パウロも自分にできることが何もなく途方にくれた。
しかし「行き詰まることはありません。」と語っている。
それは、何1つ出来ることは残っていない時でも、1つだけ出来ることがあるから。
それは、祈ること
見えるものが全てではない。
見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く。
私達の中にある見えない人格、神によって創られた内なる人
そして永遠に続くものがあることを大切にしなければならない。
10年前の今日
←今日もそこにいてくださってありがとう。